九頭竜川流域誌


4.3 江戸時代の用水普請等

  福井藩領の用水普請は、もともと村や井組から人足を出して行うこととなっていたが、その後加勢人足が出されることとなった。しかし、正徳3年(1713)には、藩は村々の用水に伴う加勢人足が増加し、出費がかさむようになったので、以前のように村普請にするように命じ、差し支えがある場合には郡役所へ申し出ることとした。
  その後、寛政元年(1789)の大水で用水路や道路橋などの損傷を受けた所が多く出たため、加勢人足が増えた。そこで、同6年(1794)に藩は、用水方の加勢人足数を1万5千人と定めた。天保元年(1830)には、用水小破の際の加勢人足の制度が廃止され、各村の「出捨り」で普請することとなった。ただし、大破のときは、用水奉行の見分に基づいて普請が申しつけられた。
  川除・用水普請人足が多く必要なときは、「四郡割」によって調達されたので、直接利益を受けない村々も負担することとなった。例えば、享保8年(1723)4月11日から5月20日にかけて実施された小舟渡用水普請では、幕府領2ヵ村負担分を除いた人足代を上領・中領・下領・川北領で分けて分担している。遠方の村々が出さなければならない人足は、普請所の近くの村々で雇って出したようである。
  弘化3年(1846)の四郡割普請場所には、用排水では粟田部鞍谷川用水池・徳光用水・江守9ヵ村用水や河合春近用水、小幡沖悪水落などがあった。                  

(※福井県史 通史編4 近世二 p.510〜511)
 

九頭竜川流域誌メニューへ
第2章メニューへ
戻る次へ
TOPに戻る

Copyright (c) 国土交通省近畿地方整備局 福井工事事務所 2001 All Rights Reserved.