九頭竜川流域誌


4.4.1 日野川

(1) 日野用水
  関ヶ鼻井堰、関用水は、旧南杣山村鯖波関新川原付近で取水するもので、慶長6年(1601)3月草分け百姓である丸岡源吾の願いを入れて、福井藩家老本多富正の命令によって開削されたと伝えられている。
  井部用水は、旧王子保村付近で取水し、四郎丸・行松・石松森・常久・沢・三ツ口・岡本・妙法寺・千福、そして丹生郡の上太田・高森・下四ツ目などの12ヵ村に及ぶ田地をうるおした。また、下流の神山村行松付近に長さ80間(145.4m)の井堰を築いて取水したものを亀渕用水と称し、松森・常久・高瀬・千福・妙法寺・平手・印内・太田新保・新村・下太田・上太田・北山の12ヵ村を灌漑した。同じく、この付近に町用水があり、防火・飲用とともに上市北府・平出・家久の水田の灌漑にも使用された。
(2) 西川用水と十一ヵ用水
  十一ヵ用水は、吉野瀬川の下流から引水し、江戸時代の初め頃には平井・熊田・大倉・小泉・二丁掛・吉田・田村・冬島・持明寺(現鯖江市)の9ヵ村を潤していた。
  
西川用水碑
西川用水碑
その頃、西大井村に利兵衛という者が住んでいて、用水を掘ることを計画し慶長10年(1605)一人で江戸に行き、幕府に願い出て許可を得てきた。そして、白鬼女橋から20間(36.4m)ほど遡った所から用水路を掘り始め、天寺川に落とす13町20間(1.45km)の大工事を成し遂げた。後の人々は、この用水を千人掘用水といい、また下川去村がこの用水に加わったので西川用水とも二ヵ用水とも称するようになった。
  慶長10年7月7日、本多・今村の両家老の連名で西大井村、下川去村の庄屋百姓に宛てた許可証によると、両村へ1ヵ月に5日5夜づつ水を通すことを許し、もし井水が細くなれば郡奉行へ注進すれば、必ず人数を加えて普請を申しつけるであろうとしている。この西川用水の2村が、先の9村に加わったので十一ヵ用水という名がつけられた。
  この用水は、下司地区で四ヵ用水と七ヵ用水に分かれ、四ヵ用水の方は鳥井地区で熊田と三ヵ用水に分かれ、三ヵ用水は平井と大倉、そして小泉に分かれる。一方、七ヵ用水の方は当田地区で二丁掛に分かれ、やや北に流れてから吉田、田村に分かれ冬島・西大井・下川去・持明寺の用水となる。
  四ヵ用水は平井村が管理し、七ヵ用水の方は二丁掛村が管理していた。また、十一ヵ用水の井元は平井村が管理していた。
(3) 井元藤兵衛と上野用水
  南条町上野の井元藤兵衛は、村人にはかって100町歩(99.2ha)の荒れ地を開墾して良田にするため、3年間かけて用水路の開削を計画し、元和4年(1618)に藩主松平忠直に上申し、本多富正から通水に関わる裁許を得た。そして、鯖波・阿久和・中小屋の3村を通じて日野川の水を導水し、幅300間(545m)、長さ1,000間(1,818m)の水田が開けた。
  上野区では、春先の用水作業を大井と称して総出で行う。そのとき、2斗5升(45リットル)の酒を井口で振る舞う井祭を行っている。大井当日は、お宮・井翁の碑・井口に御神酒を供え、1年の通水の無事を祈り、井翁の苦労を偲び徳を称える。
井元藤兵衛(井翁)の功績碑
井元藤兵衛(井翁)の功績碑


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