九頭竜川流域誌


4.4.3 真名川

  大野盆地では、応徳3年(1086)牛ヶ原荘園の開田が進められ、16世紀には郷士の花倉氏による開拓で明後・鎌ヶ渕などの用水が開かれた。17〜18世紀にかけて木本扇状地に二軒新田、木本新田が開拓されている。
  真名川から取水する用水は、堀兼用水に始まり、大井用水、明後用水が開かれた。

(※日本地誌 第10巻 福井県 p.403)
(1) 大井用水
  大井用水は、右岸を上庄村佐開、左岸を五条方において真名川を堰き止め、引水して大野町および上庄の稲郷・猪島・東山など13ヵ村の約600haの灌漑に用いた。これは、大野盆地1,500haの約3分の1にあたり、大野城下を含む1万石以上の田地を養う大用水であった。
  取水堰から800mほど下流に三ツ井分水所があり、中井・東井・西井の三つに7:2:1の割合に分水していた。中井は清滝川の川床をトンネルでくぐりぬけ、中据・下据を経て大野町に至る重要な用水であった。
  大出水後の取水堰の修復や維持管理のための経費負担は、近世を通じて石高割で、大野町と上流13ヵ村とが2分して負担していた。
  大井用水堰の上流には堀兼用水堰が、下流には明後用水堰があり、渇水ともなれば灌漑用水が不足するため、上流にある堰を壊し水争いになることがあった。
(※角川地名辞典 18 福井県 p.231〜232)
  水閘の構造は、閘前に長さ5間(9.09m)、幅3間(5.51m)、深さ3尺5寸(1.06m)の土砂溜が設置してあった。そして、溜まった土砂をかき上げておく土揚場が設けてあった。
(※福井県土地改良史 p.177)
(2) 堀兼用水
   堀兼用水は、大井用水と同様に上庄村佐開、五条方において真名川を堰き止め、引水して今井・平沢地頭・平沢領家・西山・野中を灌漑していた。堀兼用水は、御普請と自普請の両方で工事されていたようである。
(※福井県土地改良史 p.178)
(3) 明後用水
   明後用水は、上庄村森政領家で真名川を堰き止め、上庄村東中・吉および下庄村菖蒲池・中保・友江を灌漑していた。(※上庄のあゆみ p.33〜37)


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