九頭竜川流域誌


1.2 芝原用水

(1) 福井藩の直轄管理用水
  芝原用水は、古くから九頭竜川から取水されていた用水である。中世の頃は、用水路筋のうち窪、椚、室(いずれも現松岡町)を用水の上流という意味から「芝原江上」、あるいは「江上三ヶ」と呼ばれていた。また、それより古い和名抄には、「江上郷」と記されている。
 その後、芝原用水は慶長12年(1607)に北ノ庄城(後の福井城)を築城するとき、結城秀康が家老の本多富正(府中城主)に命じて、城下に住む武士や住民のための飲料水や城濠の水を補給し、さらに城外域の水田灌漑用水として利用するために整備させた。
  このようにして江戸時代は、城下の武士や住民の飲料水にあてることを第一とし、灌漑に用いることは従属的に考えられていた。そのため、芝原用水のことを「御上水」と呼び、福井藩の上水奉行のもとで管理されていた。
  芝原用水は、中ノ郷地区の二口において内輪、外輪の両用水に分かれたいた。城下に導水されて飲料に使用されていたのは内輪用水(御上水)で、外輪用水は主として東藤島の北部、中藤島、西藤島地方の水田を養う灌漑用水として利用されていた。内輪用水には東藤島南部、円山地方を養う三ツ屋、桜などの用水が分かれていた。この用水は、飲料水以外に約2,200町歩(2,182ha)、4万450余石の水田も養っていた。
 一方では、芝原用水の清浄を維持するため、町うちでは町奉行の指揮によって各自が関係地係りの掃除を行った。また、川上では郡奉行の指揮により、川筋の者が一戸一人づつ出て川浚えを行った。
(2) 用水の支配と取締り
  芝原用水は、御上水と呼ばれる内輪用水の幹流のみではなく、この用水より分水される各用水も川幅や分水口の構造、懸樋に至るまで、寸法や仕様構造が定められていて、これを許可無く変更することを禁止し、ましてや手足を洗うようなことがあれば、本人はもとより村の庄屋、長百姓も処罰を受けるという厳しい取締りが行われていた。
  御上水に関する福井藩の責任者は、家老職に直属する上水奉行であり、上水のことすべてを司っていた。
  奉行の下には、御目付、御長柄の者と称する役の者が各々2名ついて、毎日城下および上水筋を巡視して、その取締りにあたっていた。また、各村々の庄屋および村役人は、末端の責任者として、それぞれの地係り内のことについて責任を負っていた。そのため、村人が犯した違反に対しても責任が問われ、入牢、過料銀、押込み、手鎖、戸〆、城下追放などの処罰を受けることがあった。
(3) 用水路の運営
  用水については、維持管理をはじめ古くからの慣例に従って運営されてきた。芝原用水でのその主たるものを挙げると、次のようである。
 1) 大浚、小浚
  川浚えのうち「大浚」と称する川筋の大掃除は、隔年毎に4月上旬に2日間にわたって行うこととなっていた。松岡町の中ノ郷地区においては、大俵を用いて川を堰止め、水を島川へ落として引水を行い、それより福井城下入口の地蔵町までは郡方奉行、城下においては町方奉行の指図のもとで川浚えを行うこととなっていた。
  大浚のときは、城下の火災に備えて不寝番が立てられ、火災が発生すれば指図が無くとも、堰を切って通水してもよいこととなっていた。
  小浚は、大浚が行われない年に実施された。
  川浚えや川藻切りなどの労役は、「川人足」があたっていた。
 2) 橋拝領、水拝領
  家を新築し用水の水を新たに飲料水とするには、藩の許可が必要であった。許可を得て用水の水を飲料に用いることができるようになったことを「水拝領」といっていた。
  新たに橋を架設することができるようになったことも、「橋拝領」と称していた。古文書によると、大和田より新保に通ずる外輪用水に架けた橋は、文化14年(1817)に架設が許されたが、毎年11月1日より翌年2月末日までは、取り除かねばならないことになっていた。弘化2年(1845)にようやく常設の橋となった。
 3) 洩れ水もらい田
  芝原用水では、末端の江川や懸樋に至るまで、川幅や樋の寸法、構造などが詳細に規定されていて、流水の量についても勝手に変更することはできないこととなっていた。したがって、正式の灌漑用の江川や樋を持たない田は、用水の水を用いて灌漑することが認められていなかったので、洩れ水を用いて田を養わなければならなかった。このような田を「洩れ水もらい田」と称していた。これは他の地方では類例のない田であった。
 4) 水引き、水上げ
 御上水の水を分水している諸用水は、農事の灌漑に必要な期間のみ水を通すことになっていた。通水を「水上げ」、それを止めることを「水引き」と称し、おおよそ毎年一定の期日にそれを行っていた。
  水上げは、稲を植え付ける直前に行うことが慣例となっていた。そして、この水上げは、植え付けのための田仕事や菜種などの春作物の収穫の日を定める目安とされていた。
 5) 泥上げ
  用水路の両岸は「泥上げ」と称し、主として川浚えのときに掬い取った泥を揚げる空地として使用され、3尺(0.91m)幅を上水奉行が直接支配していた。河岸には雑木を植え法面保護を行っていたので、樹蔭が農作に影響を与えても枝打ちすることはもちろんのこと、稲架に利用することも一切禁じられていた。
 6) 水車、紺屋
 用水を利用する水車や紺屋(染物屋)の新設、修理、改築、増築などにあたっては、付近の住民が名を連ねて上水方へ願い出なければならないこととなっていた。これは、上水の汚染防止のうえから厳しく取り締まりが行われ、厳重な実地検分のうえでなければ許可が下されなかった。
 また、紺屋の場合は水が甚だしく汚染されるため、水洗の時間が定められていた。
(※松岡町史 p.390〜395)
(4) 用水の守護神
  
志比口の神神社 志比口の神神社
志比口の川上神社
用水関係の守護神としては、川上神社と柴神社がある。川上神社は、芝原用水地係り63ヵ村の守護神として祀られた神社で、もとは志比堺の上水口にあったが、「越前国名蹟考」によるとしばしば水害を受けたので、寛政の末頃(1800年頃)に勧請された。現在は、福井市志比口の用水が二口に分水する所に鎮座されている。
 柴神社は松岡町字本にあり、用水の水源地である芝原の守護神として延喜式内にも列している古社で、古くから地域の人たちの崇敬を受けてきた神社である。延喜式には、坂井郡33社中の1社として載せられている。(※松岡町史 p.393)
(5) 構造
  江戸時代、九頭竜川の取入口に築造された堰には、越中三叉が使用された。これは、6尺(1.82m)の松丸太を耐水性の強い藤蔓で結束し、三叉に組んで水中に並べ、その間に玉川石を詰めたものである。
  堰の前方には、長さ約10尺(3.03m)の粗朶を並べ、その上に筵をかけて漏水を防止した。堰の裏側には直径2尺(0.61m)、長さ30尺(9.1m)の竹で編んだ蛇籠を何列にも並べ、落水によって河底が掘り返されることを防止した。
  三叉と蛇籠は地上で作り、川舟で運搬して並べ、その後に玉石、粗朶、むしろ、藤、土のうなどを運び仕上げた。
  構造的には、取り外しが可能な部分を含めて漏水を許容し、柔軟に対応できるものになっていた。それは、この付近が土砂堆積の著しい箇所であるため、強い流勢のときに破損し易いことと、川を全部堰止めてしまうと下流で取水できなくなることによるものである。         
(※鳴鹿堰堤史 p.96〜97)


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