九頭竜川流域誌


3.2 水没補償問題

  両者による計画案の詳細が詰められたのは昭和37年(1962)2月であり、同時に御母衣ダムの時と同じ単価の補償基準が示された。しかし、和泉村住民側と補償額や補償対象をめぐって折り合いがつかないうえ、和泉村の奥地残存地区には移転補償を行わないといった内容のものもあり、和泉村側の反発を呼ぶ結果となった。
  その後、さまざまな調停が進められたが、長野ダムを125mの高さにして、このダム直下に発電所を建設し、これに揚水方式を取り入れ、長野、湯上、西勝原第三の3発電所で総計32万kwの発電を行うといった案が出され、発電容量を増加させるためにダムを高くして、水没面積を拡大することによって奥地残存地区を減らし、和泉村住民に対する補償額を増大させることとなった。
  この計画変更によって、長野ダム直下流に鷲ダムと石徹白川に山原ダムを建設し、この両ダムの間を導水路で結んで逆調整池として、ここに貯めた水を夜間の余剰電力を使って長野ダムの人造湖に汲み上げることとなった。しかし、石徹白川に建設予定であった後野ダムは廃止となり、長野ダムの人造湖への取水のための小規模な石徹白ダムが建設されることとなった。
  奥越電源開発が電源開発調整審議会の承認を得て、正式決定したのは昭和37年(1962)12月のことである。翌38年(1963)には、御母衣ダムの補償と比較して平均30%以上の増額で、水没地区との補償問題がおおむね解決をみた。奥地補償問題が解決したのは、昭和40年(1965)のことである。



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