九頭竜川流域誌


1.2 主要工事
1.2.1 河道掘削

 九頭竜川の浚渫は、明治33年(1900)の第一期九頭竜川改修工事で計画されたのが始まりである。その当時の改修計画は、主として次のような方針に基づいていた。
(a) 計画高水流量を疎通させるため、河道を拡築または新堤を設ける。河口は、可能な限り拡築をしたのち、浚渫を実施することによってその不足を補う。
(b) 河口を除き、他の場所においては、堤防に沿って容易に土捨場を得られる場合を除き、浚渫の方策を採らない。
  浚渫計画は、三国河口が地勢上河幅の拡張ができないため、浚渫により洪水の疎通を図り、これによって三国港の出入りの船舶の便益を増進することとした。浚渫は図4.1.1に示す法線に従い、敷幅70間(約127m)とし、低水面以下10尺(約3m)の深さに、河口から木部新保地先まで浚渫することとした。
 浚渫工事は、1日(10時間)200坪掘バケット式ポンツーン型浚渫船2隻(1隻はドイツより購入し、他の1隻は日本で建造)で行われた。
昭和初期のバケット式浚渫船
 一方、河口の三国港は、防波堤築造後、船舶の出入りは円滑に行われていたが、数年のうちに堆積が進んで水深が浅くなり船舶の航行にも支障を来すようになってきた。特に、河口左岸に砂嘴が突出して洪水の疎通にも障害となってきた。そのため、九頭竜川改修工事中は、河口の洪水疎通を目的として、毎年河口水路を浚渫していたが、改修工事が竣工すると同時に中止された。
 しかし、その後も、三国港の水深が減少したので、再改修を陳情し、その結果大正6年(1920)に福井県が浚渫船を常置したが、能力が小さかったため十分な措置がとれず、昭和期に入ってからも、しばしば、防波堤の延長や補強、河口の浚渫などが行われた。
図4.1.1 九頭竜川河口部の浚渫

 昭和31年(1956)になって、日野川合流点から九頭竜川本川下流の河口までと、日野川では江端川合流点までの区間を再改修することになったが、当時、利根川下流や木曽川下流では浚渫工事を主体とする改修計画で、沿川の水田へ客土し、併せて土地改良を行う工事が行なわれており、九頭竜川もこれらの河川と地形環境が類似していることから、次のような計画で行うこととなった。
(a) 九頭竜川沿川の水田が湿田であるため、内水対策の面から計画高水位を変えず、河積は低水路の浚渫、高水敷の掘削によって増大し、堤防は一部嵩上げ、補強を行う。
(b) 浚渫土は、福井大地震で地盤沈下した沿川の田畑などに捨土(客土)し、乾田化を図るなどの土地改良を行う。
 浚渫工事は、昭和31年(1956)11月に日野川の三郎丸地先で200馬力のポンプ浚渫船を用いて工事に着手し、まず三郎丸地区の3町歩余の耕地に良質の砂壌土のみを客土した。また、日野川右岸堤防の裏腹付工事は、関係地主の協力を得て用地買収が順調に進み、翌32年秋までには黒丸地区の工事を終えることができた。
  続いて、昭和32年度には深谷地先の浚渫土を深谷地区の耕地に客土する工事に着手し、昭和33年度には浚渫土を三郎丸、深谷の他に黒丸にも客土した。耕地への客土は、昭和34年度からは楢原や岸水地区、大瀬地区にも広がっていった。
 この間には、東郷重三市議などの努力によって、客土区画整理を地盤沈下対策事業で、揚水ポンプ新設工事を積雪寒冷地土地改良事業で、併せて実施することにより工事を無事に完成することができた。(※西藤島村史 p.716〜717)
  このように、昭和31年(1956)11月から35年(1960)7月までは、日野川の九頭竜川合流点から足羽川合流点を対象に、河道掘削した後に、その掘削土を使用して堤防の腹付けを行うとともに、湿田に客土する工事を実施した。この間の河道掘削土量は、約1,045千m3で、築堤土量は約86,500m3であった。
  昭和34年(1959)4月から翌35年2月までは、浅水川合流点まで168,100m3の河道掘削を実施した。そして昭和34年(1959)9月から41年(1966)2月までは、足羽川合流点より江端川合流点付近までの区間を対象に、約1,046千m3の河道掘削を行った。
  日野川の河道掘削がかなり進んだ頃、昭和35年(1960)12月から39年(1964)10月にかけて、坂井町折戸地先より川西地先の九頭竜川で約890千m3の河道掘削を実施した。また、昭和39年12月から41年12月まで、九頭竜川の三国町新保地先より下西地先において、約571千m3の河道掘削を実施した。
日野川河道堀削工事(昭和37年度 福井市久喜津付近)


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