九頭竜川流域誌


参考資料
成福寺の裏山に建つ杉田鶉山翁の父
成福寺の裏山に建つ杉田鶉山翁の父「杉田仙十郎翁之碑」(福井市波寄町)

位置図

 杉田仙十郎翁之碑(現代語文)

 杉田氏は越前の名門で、代々立派な村長(むらおさ)を受け継ぎ、数百年、豪農として聞こえていた。慶長年間、豊臣氏が役人に命じて、杉田氏所有の田を検知させたところ、千二百石を数えた。当時の税籍が現存している。
 君は、仙十郎と称し、亡き父は次郎兵衛といい、亡き母は某氏といった。君が19歳の時、福井藩の家老某と江戸に行き、外国の戦艦が周辺の海に見られ、天下が次第に物騒となり、あなたは時勢が厳しいと密かに思っていた。田舎者の兵士(本人のことか?)は、かりそめに安んじて帰った。28歳にして久保氏を娶り、定一を育てた。ほどなく、久保氏が亡くなり、君は物忌みをして日々を過ごし、真言伝抄を口ずさみ、気を晴らしていた。一旦、その考えがでたらめではないかと疑いを持ち、巻を開いて嘆いていった。「百の方便は一つの誠実に及ばない。まことに、学問は至誠を主とすべきなのだ。」と。そこで、地を村に探して、学校と孔子廟建立に巨額を投じ、家蔵の蝋石の聖像を安置した。唐代の旧書物にいう「これで、学校での学問が村でできるのだ。」。しかし、たちまち役人たちは話し合い、言うのだ。『学校は抑えられるものだ。』と。そして、役人はあえて僭越にも命じたのだ「校舎を撤廃し、村の正職を奪い、家に幽閉せよ。」と。村人は、その知らせを聞き、集まってこういった。「私たちは代々、杉田氏を信頼し、先祖は子孫を育てんとしたが、どうして、その冤罪を晴らせないことがあろうか。(否ない。)」。また、書状にいわく、「杉爺は清廉で、村人を愛したが、にわかにその職を奪われたので、人々は悲しみ、復職を切望するのが村人の願いである。」と。しかし、報われなかった。
 あなたが村の正職にあったとき、通達を出した。「人々の気持ちはゆるやかに、かつ厳しく、その点部下によろしくするように。」と。甲村と乙村とが仲が悪く、たまたま、乙村の人が放火することがあって、その情を哀れむべき点を君は酌量し、その罪を軽くしようとした。甲村の人は屈せず、強く厳罰を求めた。君は笑っていった。「わかつた。おまえ達の求めに応じて、おまえ達の村中で極刑にしたら気を晴らして満足できるだろう。」甲村の人は、顔を見合わせて驚いて、畏怖する気持ちが増し、急に訴えることをやめるよう請うた。
 また、某村に古い祠が奥深いところにあって、樹木が鬱蒼と耕田をおおい、収穫を減らし、また、人が隠れ旅人を殺し、肉林の名がついていた。君は木を切り、害を除き、村での神の怒りに触れることが憚れるとの迷信を取り除いた。君は諭して言った。「神の徳が民を守り、民の害を取り除くためにしたことを神はどうして怒ろうか。(否、それはない。」 また、九頭竜川沿岸の布施田村が大きな水門を造り、洪水に備えて水を流し、そして水面を平らにして放流したとき、六つの流れを仕切らなかったので、(下流の)集落は灌漑ができないことを心配した。君はしばしばその門をふさぐよう諭したが、布施田村の人は低湿地で水害が生じると言い訳をして、頑強に服さなかった。君は襟を正していった。「おまえ達は、低湿地が多いと言うが、平地と比べてどれほど低いのか。」答えて言う「約6寸ばかりだ。」と。君はうなずいてこういった。「もともとの低い土地を平らにするには、夫役4万人を各村で分担すれば成功するだろう。おまえ達は利害を真剣に考えよ。」と。布施田村民で先に小言を言ったものは、ついに中止を願い出たので、水門を閉じた。下流の村々は、初めて等しく利益を得た。
 また、元治甲子(げんじきのえね)の年、水戸藩士武田耕雲斎らが事を挙げ、都に入ろうととしたとき、幕府は諸藩に、これを途中で阻止するよう命じた。とうとう敦賀で捕らえられた。君は春嶽公に手紙をしたためていわく、「水戸浪士の輩は行動が過激であっても、憂国至誠から出たもので、かりそめに安んじているもの達が俗に流されているのを見るにつけ、庭に山道のようなものがあるので、領内の砂浜開墾の工事を与えられん。」と。かの輩は感激し、過を転じて福となすよう真心を込めて尽くした。言は用いずとも、その機略を見せた。
 明治維新の藩主は、君をたて、水の管理堤防など、君に仕え・・・・をなげうって、・・・・灌頂寺の100間の止め木は、疎水藩主として賞され、その手柄は年米若干のわらつとを給せられた。先に封建時に越前に制せられていた福井藩以外の二・三の小国が土地を抑えてあい接していて、三大河川があり、九頭竜川といい、日野川といい、足羽川といい、各国を貫流し、沿岸の低湿地はそれぞれ利害があったが、治水のことについて杉田氏は企画し、君の父子にいたって完成したのが今である。沿岸各地は長く水害を免れ、その業績は偉大である。君は常に子を戒めていわく、「粗食にして、むさぼり食うなかれ。正直にして、欺くなかれ。」と。まことに理にかなった言葉である。
 その子定一は鶉山を号し、人となりは誠実で民権を主張した。国会の全国遊説の折りには、その席が温まる暇もなかったので、地租改正のことがあったときは県令は向こう見ずに認め、いらだつ人々は苦しみを訴えたが、聞かなかった。たまたま、鶉山が帰郷し、君の意を受け、官民の間を斡旋し、官はついに越前七郡を再検査し、田畑一千二町余歩、租額八万八千九百円に減らした。君たち父子を讃えた。国会はすでに開かれ、鶉山は毎期、選良を引き受けた。・・・・。君は明治26年1月10日病没し、生まれは文政3年10月6日で、享年74歳であった。故郷坂井郡波寄村に埋葬された。
 次に、鶉山は衆議院議員をもって北海道長官に任ぜられ、さらに、衆議院議長に任じられた。かつて、国家とロシアが満州で接していたとき、帝国議会は鶉山と有力現職勅撰貴族議員と兵料を送った。この父にしてこの子あり。
満腹経綸(天下を治めることに腹を満たし)
憂国愛民(国を憂え、民を愛した)
位不称徳(位は徳をたたえず)
政上郷隣(政は隣近所に上げる)
有子縄武(有子 武を正し)
其志得伸(その志 伸ぶるを得ん)
正二位勲一等伯爵板垣退助額に題す。前衆議院議員矢土勝之文を撰びて併せて書す。
自郷学舎の級友、頭山満、新藤喜平太および三大沿岸各地の有志等建立す。
大正五年二月
  
(裏面)
片川水害予防組合
山梨子普通水利組合


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