第13回懇談会 (発表-3)水辺との関わり 詳細

水辺との関わり(昭和30~40年代の加古川市別府町の海岸近辺について)
株式会社ラジオ関西 田下明光氏

「シンガイ・ワンド・マガリ・オオミゾ」ということで、昭和30年代に別府の海岸やシンガイ周辺で子供時代を過ごし、そしていま50代を迎えている僕たちが次の世代へ良いものを伝える役割の一人として当時の話をしていきたいと思います。

明治新撰・播磨名所図会
「明治新撰・播磨名所図会」
明治26年10月発行

明治の初めに描かれた「明治新撰・播磨名所図会」から推察すると、その頃はまだ別府の住吉神社の裏から沖に向かっては、堤防もなく砂浜があったように思います。別府の海岸では海水浴、潮干狩りが昭和43年まで続けられました。


新開(シンガイ)とは、岩崎新田、千代新田、金沢新田等、新田を開くことをいい、新しく開発するという意味でした。

防波堤のすぐ北側に「オオミゾ」(悪水の溝)と呼ばれるミゾがありました。新田の真水を「コミゾ」(はがねの溝)に溜めて流し、さらにオオミゾに流したあと海に流したということです。

施設配置図
施設配置図
昭和42年 加古川地形図

オオミゾは汽水域であり、シジミが採れ、ハゼ・ボラ・ウナギなどもいました。当時の子供達はアサリ・ハマグリ・シジミ・ウナギ・ツグミなども捕り、日常生活で食べるものであれば、生活にいる分ぐらいは捕れていたように思います。

「マガリ」というのは、明治時代から大正にかけて防潮堤が曲がっていた所であり、子供のころには高さ5m以上の大きな堤防がありました。3マガリには別府地域と尾上地区の子供の領分の境界がありました。


オオミゾ、コミゾの水を海側と調整するためにワンドと呼ばれる施設がありました。満潮のときにはワンドの水門を閉めて塩水が入ってくるのを防ぎ、干潮のときには開いて水を外に流します。開墾当時は8ヵ所あったそうですが、昭和30年代には4ヵ所のみ残っていました。

イメージ図
ワンドのイメージ図

ワンドというのは一体何であるかというのが長い間の疑問であり、岩田委員から家の近所の溝に「うわんどら」「したんどら」というものがあると聞きました。ワンドの語源については、日本の河川改修に大きな影響を与えたオランダ技師のデレーケが使ったオランダ語の中に「ワンドラ」という言葉があり、それがなまってワンドとなったという説と、辞典では「湾」に「処」と書いてワンドという読み方があります。しかし、歴史的にも樋のことをドと呼んでいたので、丸い格好(お椀・湾)をした樋という意味でワンドと言ったのではないかと思います。

考古学で石積みのことなどを研究している人に聞いても、この丸みから推測すると天保年間に新田開発ができたときからあった可能性も十分あると聞きました。


マガリ、シンガイ、ワンドは僕の記憶の染みついた場所なのです。ここで、遊び、魚と戯れ、魚の捕り方を覚え、溺れそうになって助けてもらったこともあり、その中で、僕自身の意識の危機管理もできていったと思います。それらを僕らの年代が子供たちに残していくことが必要であり、僕らがいま何らかの形で伝える役目を負っているのではないかと思います。

30m水路に一番近いのはオオミゾであると考えています。それは汽水域の条件があり、非常に面白い生態系を持っているからです。30m水路を昔の汽水域のような形で残せないでしょうか。

質疑応答

水辺との関わりについて

オオミゾの機能
  • 30m水路は昔のオオミゾであったのではないかと私も思います。大雨のときでも海の水位が高い間は水門を閉め、引き潮を待って放流するということが続けられていました。
30m水路とオオミゾの違い
  • 30m水路と僕の記憶にある昭和30年代のオオミゾには違うところがあり、オオミゾは2ヶ所ほど途切れている箇所があったということです。ただし水はワンドを通して海へ流れ、コミゾの水門を通してシンガイとも行き来していたということです。
  • 私たちの生活の中にある昔話、民話にはそれぞれの地域で下流を思いやり、上流を思いやり、海の向こうを思いやる話があったと思います。それが生活の中にいろいろな形で子供に伝えられていったと思います。
「川の達人」人材バンク制度の提案
  • 川や池のそばには「川の達人」とか「池の達人」といえる、いわゆる川のことなら何でも体験して知っている方が随所にいらっしゃいます。こういう方々を人材バンク的に登録し、小・中学校の総合学習のゲストティーチャー等として活用できないものでしょうか。