東播海岸の歴史

白砂青松。外海の荒波の影響を受けることなく、波の静かな海と白い砂浜、どこまでも続く緑の松の木の景観を想像させるこの言葉は、昭和の初期まで東播海岸を指していたものだった。

すべてのものを兼ね揃え、創り出す海だけがこの言葉にふさわしい。その美しさは万葉の昔からこの地を訪れる人々の心をとらえており、万葉集には東播海岸を詠んだ多くの歌が収録されている。

また東播海岸は漁場としても素晴らしい場所で、昔は「まぐろ」を釣ろうと漁師の舟が行き交っていたという。この美しさをずっと守り続けるために、そして、豊かな海をこれからも維持していくために。たゆまぬ努力を続けていくことが今、求められている。


8世紀後半

万葉集に東播海岸

万葉集に、東播海岸を詠んだ歌が多数収録される。西国に下る官人や遣唐使、遣新羅使ら一行が往還の時に詠んだ歌が多く、それはこの地が難関の明石海峡を通る苦難の時、望郷・郷愁を呼び起こす場となったからだと思われる。

荒栲(あらたえ)の 藤江の浦にすずき釣る あまかと見らむ 旅行くわれを
- 柿本人麻呂

845
承和12年

明石の浜に初めて「舟」と「渡し守」が常設

東播海岸には、魚住泊(明石市魚住)、韓泊(姫路市的形福泊)、蟶生泊(揖保郡御津町室津)の3つの泊があった。ちなみに魚住泊~韓泊は21キロ、韓泊~蟶生泊は22キロの行程。これは僧・行基が1日の航程を測って決めたという。

1586
天正14年

記録に残る最古の漁業権争い

瀬戸内海随一の漁場で魚の宝庫といわれた東播海岸において、東二見と林村の漁場を巡っての漁業権争いが起こる。この漁業権争いは記録に残る最古のもの。どれだけ魚が豊富に獲れたかを如実に物語る記録である。



<舞子浜>
広重(六十余州名所図絵)神奈川県立歴史博物館蔵


1604
慶長9年

浜利用で塩を大量生産

荒井村六左ヱ門が、現在の梅井村に塩浜を開き、この地に移る。瀬戸内海沿岸の製塩は弥生時代中期に発生していたが、非常に原始的なものであった。浜利用で塩が大量に生産できるようになったのは奈良時代以降だと言われている。

1673~1680
延宝年間

八木海岸に80間の植林

明石城主が八木海岸80間(144メートル)の植林を行う。植林の記録はこの他にはあまり残っておらず、海路を往く旅人たちの心に深く印象付けられる東播海岸の松は、自然に育ったものが多いと思われる。



<昭和4年 舞子浜>


1961
昭和40年頃

侵食が激しくなり建設省直轄事業として

昭和36年には第2室戸台風、39年には台風20号、そして40年には台風23号と続けて大きな災害が生じました。加えて、風光明媚な海岸として知られた東播海岸も明石海峡の影響などから侵食が激しくなる。そこで、昭和33年に成立した海岸法により、東播海岸の約19kmの区域において建設省(現国土交通省)直轄事業として護岸整備に着手した。



<昭和39年 20号台風>
狩口地先




<昭和39年 20号台風>
大蔵谷地先、越波状況


1982
昭和57年

養浜事業実施によりウミガメが上陸

地球規模での環境意識の高まりを背景として、東播海岸でも新たに海浜を生み出す養浜工を実施。現在まで、明石市の江井ヵ島から藤江の海岸線を中心に、砂浜がよみがえりつつある。また、その浜に産卵のためにウミガメが上陸してきている。

1992
平成4年

CCZ事業着手

CCZ事業に着手。CCZ事業(コースタル・コミュニティ・ゾーン)とは、美しい海岸を復元し人々が集うコミュニケーション空間、スポーツレクリエーション空間を創出するというもの。神戸市舞子地区、明石市大蔵地区の2地区において実施し、平成10年度末に完成した。明石海峡の新たな名所として親しまれている。