東はりま加古川水の新百景

冊子番号116


ひゃっけんぐらあと
百間蔵跡
■河川名
加古川
■所在地
高砂市 高砂町
■参考文献 「兵庫歴史散歩」兵庫歴史教育者協議会編
「加古川の流れ」姫路工事事務所


写真



川、水との関わり(アピールポイント、その他)
加古川舟運繁栄時の米蔵跡。




山陽電鉄本線「高砂」下車徒歩3分
概要
「百間蔵」は、加古川舟運が栄えた頃の高砂の姿を象徴していた米蔵です。
慶長年間(1596-1614)に、姫路藩主・池田輝政が、加古川舟運と瀬戸内海航路をつなぐ拠点として高砂の港をつくり、堀川を開削した時、京都伏見にあった蔵を当地へ移して増築・改修したものといわれています。『播磨鑑』には、「北の方は長さ五十間(約90m)、横三間(5.4m)、東向きで前に築地、門があり、南の方は長さ六十間(約108m)、横四間(7.2m)で俗に百間蔵と言う」と書かれています。加古川を下ってくる荷物の主なものは年貢米で、姫路藩だけでなく天領や諸大名、旗本領などの年貢米は、すべて高砂に運び込まれました。そのため、港には百間蔵のような米蔵がたくさんあったといいます。もちろん、米だけでなく材木・木綿・塩・干鰯・菜種など運び込まれ、大いに賑わっていたようです。その後、本多氏によって計画的なまちづくりが行われ、碁盤の目状の整然とした町割りが完成しました。なお、現在も随所に蔵の名残を留める街並みが残っています。また、相生橋の北の袂には「百間蔵跡」の石柱が立っています。


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