写真
川、水との関わり(アピールポイント、その他)
加古川舟運の開発に関連する跡。
JR加古川線「滝」下車徒歩5分
神姫バス「滝野」下車徒歩5分
神姫バス「滝」下車 |
概要
掘割水路は、加古川流域でも特に景勝地として名高く、また、舟運の最大の難所でもあった闘龍灘を明治6年(1873)に開削して造られた水路です。
文禄3年(1594)、生駒玄蕃が加古川舟運を思いたち、阿江与助たちに開削工事を命じたことから加古川の舟運は始まったといわれますが、闘龍灘が横たわるために舟運は上流(滝野以北=田高川)と下流(滝野以南=滝野川)に二分されました。つまり、高瀬舟に満載され丹波地域などから瀬戸内海へ向かう米は、闘龍灘の手前でいったん陸揚げされて下流へ運ばれ、再び舟に積み込まれていました。また木材の筏は闘龍灘の手前で解体し、一本ずつ滝壷に落とし下の座の浜で筏を組み直して高砂へ下したといいます。
加古川舟運開発から278年後の明治5年(1872)、多可郡石原村の村上清次郎らが、闘龍灘の岩盤掘削を新政府に願い出、翌6年1月から開始されましたた。その年末に完成しました。堀割は長さ180m、幅8m、深さ4mです。作業は上流の野村滝と津万滝の継続施工で、工事はフランスの技師ムーセが担当、ダイナマイトを使用した短期間工法でした。 |