東はりま加古川水の新百景

冊子番号59


しんべわたしあと(たいこうわたしあと)
新部渡し跡(太閤渡し跡)
■河川名
加古川、東条川
■所在地
小野市 新部町
■参考文献 「兵庫のふるさと散歩 東播編」兵庫県
監修/石田 善人
発行/21世紀ひょうご創造協会
「兵庫県むかしむかし」兵庫県老人会連合会
市提供資料


写真



川、水との関わり(アピールポイント、その他)
加古川の渡し場跡。(秀吉が渡ったとされる歴史ある渡し場)




JR加古川線「河合西」下車北東1.5km
概要
加古川には明治時代には少なくとも渡しが17カ所はあったと推定され、「新部渡し」も加古川と東条川の合流する地点にあった人渡し(一岸出船)の一つです。
むかし、高砂から丹波への街道が川の西岸を通っていて、高砂→黍田→新部→(渡し)→西古瀬→社→三草→清水寺→丹波→京の都へと人々が往来していました。この渡しは、西国巡礼三十三ヶ所札所の「清水寺」から「法華山一乗寺」までへの遍路道でもありました。新部側には渡し場の詰め所が、西古瀬側の渡し場には桟橋がつくられ、また小さな船着き場もあり、新部河岸として旅籠や小料理屋が何軒かあったといいます。この渡しは天正6年(1578)、織田信長から播磨平定の命を受けた羽柴秀吉が、三木城別所氏を攻める途中、ここで新部村の船頭・山田新介らの手を借りて筏で軍勢を渡したことから、「太閤わたし」と呼んだといわれます。これに対する報奨として、秀吉は船頭四人に対し、渡し舟(「太閤丸」と名付けられた)の運行を許可し、賦役の免除の墨付(証文)をも与えており、これは現在、「兵庫県立歴史博物館」に保管されています。それ以降、現在の小野市と社町を結ぶ重要な交通機関として昭和40年(1965)頃まで渡し舟の運行が続けられていました。


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