国道2号の歴史

京と太宰府。古代から栄えていたこの二つの地域を結ぶ、現在の一般国道2号に相当する道路・山陽道は、七世紀頃から整備された七道の中でも非常に重要な存在であった。

律令の規定により一定間隔で駅屋が設けられ馬、荷車を置き、京へは労働力や中国文化を、そして地方へは中央文化を、いわゆる駅伝方式で運んだのである。

ちなみに播磨地域には五つから九つの駅屋が設けられていたという。そこで行き来したのは、ものだけではない。こころも行き来したのだ。播磨地域は、山陽道があったからこそ栄えたといっても良いだろう。昔も今も、地域の発展のために道が果たす役割は大きい。


645
大化元年

日本唯一の大路「山陽道」

中大兄皇子らにより五畿七道が制定され、山陽道は日本唯一の大路として格付けられる。

703
大宝3年

「続日本紀」に山陽道が登場

「続日本紀」に"この年の正月甲子条に正八位上穂積朝臣老を山陽道に遣り、政績を巡省し..."という記述がある。この頃から多くの人が山陽道を利用していたことがわかる。

729
天平元年

日本最大の駅家

「賀古(かこ)」の駅家(現加古川市内)に馬40頭が配置され、日本最大の駅家として栄える。

888
仁和4年

駅を中心とした賑わい「明石駅」

菅原道真が讃岐国司として赴任する際に、明石駅で「題駅楼壁」という歌を詠んだと伝えられている。これは明石駅に駅楼と呼ばれる楼閣建築があったことを意味しており、駅家を考えていく上で大きなポイントとなる。

1611
慶長16年頃

山陽道は姫路城の都市計画に

「慶長播磨絵図」が作成され、姫路城下の建設が進んだ。その城下を通る山陽道の道筋は、新たに都市計画の中に組み入れられたという。当時から道路を重視した都市計画が行われていたことに驚かされる。

1806
文化3年

幕府道中奉行実測絵図作成

幕府の道中奉行が配下の役人を動員して実測絵地図「山崎通分間延絵地図」を作成。道路の状況や高札、一里塚などはもちろん、宿場町については個別町名なども詳しく記載されている。播磨地域も賑わっていたようだ。






<中国行程記/年次:宝暦年間>
萩市郷士博物館蔵

1826
文政9年

シーボルトも姫路城の美しさに感動

オランダ医であるシーボルトが、「江戸参府紀行」という、山陽道を上がっていった記録が残されている。その中で、播磨の街道沿いが記され、姫路については「...白く輝く城郭により、その場所を示していた。我々はしだいに家数を増していく道を静々と進み、15分後に城下の市区にある大きな門のところに着いた」とある。別名白鷺城と呼ばれた姫路城の美しさに、思わず彼も息をのんだのだろうか。

1885
明治18年

明治天皇も東有年本陣(赤穂市)で休息

明治天皇は、山陽道(山口、廣島、岡山、兵庫)の行幸の際に、有年峠を越えるにあたっては籠で通られ、その途中に東有年の本陣で休息されたという。

1946
昭和21年

「みち」から道路へ。国道2号一次改築再開

戦争中に、一時中止されていた国道2号(兵庫国道)の一次改築事業を再開する。神戸以東は大正時代から改良工事及び電車軌道設置による拡幅工事が実施されており、神戸以西についても昭和初期から改築工事に着手していたが、戦時中にやむなく一時中止のかたちをとっていた。

1958
昭和33年

「車の通れる道路」国道2号、一次改築完了

国道2号の一次改築事業を完了する。昭和21年に再開した、一次改築事業は、近畿地方建設局(現近畿地方整備局)の直轄になってから、それを引き継ぐかたちで改築事業を進め、昭和33年に全線の一次改築を完了したのである。

1974
昭和49年

播磨工業地帯の道路として加古川バイパス完成4車供用

加古川バイパスが開通する。この道路は、第二神明道路(有料)の終点である明石市魚住町清水(明石西ランプ)を起点として、高砂市阿弥陀町魚橋(高砂北ランプ)を終点とする延長12.2Kmの自動車専用道路である。国道2号の交通混雑の緩和、播磨工業地帯と京阪神を結ぶ幹線道路として、その役割を果たし現在では1日10万台の車が通っている。

1985
昭和60年

姫路バイパス4車線で供用を開始

姫路市街地の著しい交通渋滞を解消する目的で、昭和41年度に事業に着手。昭和45年から工事を実施し、昭和50年に全線の暫定供用が開始された。なお、平成2年には高砂西ランプ~姫路南ランプ間で6車線供用も開始されている。

1990
平成2年

姫路都市圏が拡大。西播磨を結ぶ太子竜野バイパス開通

太子竜野バイパス開通。太子竜野バイパスは、姫路バイパス等と一体となって、京阪神と播磨地域を結ぶ目的をもった道路である。平成2年には、全線4車線で開通した。

【令和3年8月23日更新】