国道29号の歴史

美作や山陰地方で採れる鉄を畿内に運ぶ産業道路としての役割が大きかった現在の一般国道29号に相当する因幡道。

本来山陰方面のルートにしては七道制の山陰道が用意されていたのだが、道の険しさとそれともなう不整備さで、ほとんど機能していなかったという。せっかくの道路も、安全に通行できるようにきちんと整備されていなければ、その意味をなさない。それは、いつの時代も変わらない真実である。


808
大同3年

「日本後紀」に智頭郡の道俣駅の記述が登場

「日本後紀」によると"因幡国八上郡の莫男駅、智頭郡の道俣駅 馬各二匹を省く。大路に縁らず、常用希を以てなり"と記載されている。 これは五匹以下の馬しかいない小さな駅で、さらに二匹の馬が減らされたが、駅の廃止には至らなかったという意味。しかしこの駅名は後の記録には見当たらない。

1099
承徳3年

京から佐用七日間

平時範が京から因幡国へ赴任途中に"「明石駅」「高草駅」を経て美作道に入り、佐余(佐用)に宿した"という記録がある。行程に要した日数は七日間。比較的ゆっくりとした行程だったようだ。

1650
慶安3年

美作道、街道としての機能が整う

「正保国絵図」が作成される。美作道は慶長期からコースが変わっており、この頃には街道としての機能が整ったようだ。以降の元禄・天保両絵図ともコースは変わっていない。このことをみても、寛永・正保期に街道・宿舎制が整ったことがうかがえる。

1813
文化10年

揖保川の舟運によって街道のルートが変わる

伊能忠敬が美作道および因幡道を測量する。ここで「正保国絵図」のコースに変更が加えられ、旧コースは古街道と記された。これは揖保川舟運の影響によって人や物の流れが変わったためだと考えられている。

大日本沿海輿地全図
<大日本沿海輿地全図>
年次:寛延二年/東京国立博物館蔵

1957
昭和32年

「みち」から道路へ。国道29号一次改築事業に着手

一般国道29号の一時改築事業に着手する。国道29号は、姫路市と鳥取県を結ぶ主要幹線道路であり、播磨地域の南北方向の交通流動を受け持つ全長約124Kmの路線である。2市4町を通過しており、昭和42年には一次改築が完了する。

1967
昭和42年

車の通れる道路へ。国道29号一次改築事業、完了

一般国道29号一次改築事業が完了する。昭和32年より直轄施工で取り組んでからは、工事に拍車がかかり、年々改良率、舗装率をいちじるしく向上させた。そのため昭和42年の改築完了となった。

1974
昭和49年

ガケ崩れ積雪の難所「波賀町」の防災事業スタート

波賀町の防災事業に着手する。この地域は、地形や気象条件が厳しく、安全かつ確実な交通を確保するため、急カーブの解消やガケ崩れ対策が必要であった。昭和57年には引原3号橋、同62年には引原2号橋、平成2年には引原1号橋を開通している。また平成11年には引原4号橋と関連工事を完成させ、兵坂トンネルの設計・工事に着手している。

1986
昭和61年

南北方向をつなぐ姫路西バイパス事業に着手

姫路西バイパス事業に着手する。近年、姫路市街で随所に交通渋滞が見られ、幹線道路としての機能が果たせなくなっていたこと、東西方向の交通流動を受け持つ路線として、山陽自動車道および、国道2号バイパス等の整備が進み、これらの道路を相互に連絡する必要があったことなどから着手した。この事業は、平成8年に開通に至った。

1990
平成2年

姫路都市圏の拡大に伴い姫路北バイパス事業に着手

姫路北バイパス事業に着手する。姫路西バイパスが部分開通に至ったものの、同バイパス以北の区間では、依然として交通渋滞を続けていた。そこで、姫路市内における一般国道29号の交通と安全と円滑を図るために平成2年に事業化。