大阪道の歴史

国道の起源『五街道』
国道の起源『五街道』
国道の起源『五街道』
 現在の国道のルーツとも言われる江戸時代の街道筋。江戸時代の街道筋とは、五街道に代表される、江戸幕府によって整備が行われた街道のことです。
 戦国時代、激しい戦乱のおかげで全国の街道は荒れ果て、庶民が安心して通行することは極めて困難でした。天下統一を目前にした織田信長は、諸国の統一を行う上で街道の整備は欠かせないと考え、街道の大改修を行いました。この作業は、豊臣秀吉へと受け継がれ、最終的には関ヶ原の戦いによって天下を手に入れた徳川家康へとゆだねられます。
 徳川家康は、各国大名に対する政治的支配を強め、安定した幕府を築くために、街道の整備を重点的に行いました。街道の道幅を広げ、一定区間ごとに宿場や一里塚を設置。宿場には伝馬が備えられ、街道沿いには松並木を植えました。

 五街道は、徳川幕府の四代将軍家綱の時代に定められた街道です。江戸の日本橋を起点として、東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道の五つの街道が全国へと流れ出ていました。
 安藤広重、葛飾北斎の風景画で有名な東海道。江戸の日本橋を発し、太平洋を左手に見ながら続く、京都三条までの五十三次です。大阪までの四宿を加えて、五十七次とも呼ばれます。東海道は、天下の大動脈と言われ、幕府が最も重要視した街道でした。当然、街道沿いの関所での取り締まりは厳重で、「入り鉄砲に出女」の言葉通り、江戸に入る鉄砲と出ていく女性は厳しく検査されました。
 東海道と並び有名なのが中山道です。むしろ庶民には、取り締まりが厳しく難所となる河川の多い東海道よりも、好まれて利用されていました。中山道は、険しい山道で、天候によっては通行が困難な場所も多くありましたが、庶民にとっては交通量も少なく、宿賃も安いことから気楽に通れる街道だったのかも知れません。

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古き歴史をもつ大阪の街道たち
大阪を走る11の街道
大阪を走る11の街道
 大阪に通じていた五街道は、京都の三条より延長された東海道だけでした。しかし大阪には、都が京や大和にあった時代に造られた、五街道よりも長い歴史をもつ街道筋が多く残っています。
竹内街道沿いにある松尾芭蕉ゆかりの綿弓塚
竹内街道沿いにある松尾芭蕉ゆかりの綿弓塚
『竹内街道』
 大阪府堺市から竹内峠を越えて奈良県當麻町に通じる街道。その昔は、丹比道(たじひみち)と呼ばれた日本最古の官道でした。言うなれば、日本で最初につくられた国道です。丹比道は飛鳥の朝廷と難波の港を結ぶ613年につくられた大道で、遣隋使や遣唐使とともに大陸より送られてきた使者を迎えるためにつくられました。当時、摂政であった聖徳太子は大陸の文化に非常に興味を持っており、この道を使って飛鳥に新たな文化を多くもたらしたそうです。

名称の由来の一つである長尾神社
名称の由来の一つである長尾神社
『長尾街道』
 都と難波を結ぶ東西にのびる道で、竹内街道と並んで重要とされた街道です。古代は大津道とも呼ばれました。その後も、遷都にともない道筋も変遷され、亀瀬海道、大和街道、奈良街道などと名称も変わりました。明治25年以降から、現在の名称が使われています。名称の由来には、起点となっている奈良県當麻町の長尾神社から付けられたという説と、堺市にある北長尾町、南長尾町から付けられたという二つの説が存在します。

『東高野街道』
高野山への参詣街道として多くの人々が往来した東高野街道
高野山への参詣街道として多くの人々が往来した東高野街道
 京の都から高野山までを結んだ街道。京の僧侶が高野山へ修行に出る際に、よく利用した街道です。高野山への参拝は貴族の間で流行となり、やがては武士、商人、一般庶民までもが参拝へと高野山を目指して、この街道を歩きました。また、この街道沿いには「弘法の井戸」と呼ばれる水飲み場が所々にあり、街道を行き交う人々は、その場で休息の一時を過ごしました。

郡山宿本陣(大阪府茨木市)
郡山宿本陣(大阪府茨木市)
『西国街道』
 古代においては山陽道、現代においては国道171号とほぼ同じ道筋を通っていた西国街道。起点の京都から西へ進み、桂川を越え、山崎を抜け、兵庫県西宮へと通じる街道でした。街道筋にある山崎は、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀と、その敵討ちに向かった豊臣秀吉が戦った「山崎の合戦」で知られる場所です。

堤防沿いに残る街並
堤防沿いに残る街並
『京街道』
 東海道から延長された京都〜大阪までの街道筋。道自体は、奈良時代より存在した古道でした。街道としての整備を行ったのは豊臣秀吉で、当時は「文禄堤」と言われ、淀川左岸沿いにつくられた堤防を道として利用していました。その後、徳川家康の手により「京街道」と名を変え、伏見、淀、枚方、守口は大きな宿場町となりました。参勤交代のルートとしても使われ、紀伊徳川家の大名行列では約4,000人が通行したと言われています。

大阪から和歌山まで続く長大な紀州街道
大阪から和歌山まで続く長大な紀州街道
『紀州街道』
 堺市を貫き、大阪と和歌山をつないだ街道です。古くは、大阪湾岸の集落をつなぐ生活道路として存在していました。公用の街道となったのは近世中期ですが、大阪〜堺間は豊臣秀吉が大阪城に進出した頃から主要往還道として使われていたと言われています。

江戸時代、中国街道の要衝として賑わった神崎橋
江戸時代、中国街道の要衝として賑わった神崎橋
『中国街道』
 大阪高麗橋を起点として、尼崎を経て西宮へ通じ、西宮で西国街道と合流して山陽道となって下関へ向かう街道。江戸時代には、幕府道中奉行の役人が使用した『駅肝録』『五駅便覧』に「大阪より中国路」と記されており、公的な街道として認められていました。

能勢街道や伊丹街道の交通の要として、江戸時代から商業の発展に大きな役割を果たしてきた原田神社
能勢街道や伊丹街道の交通の要として、江戸時代から商業の発展に大きな役割を果たしてきた原田神社
『能勢街道』
 能勢街道は、大阪から池田を中継して、能勢へと通じる街道です。この街道は、薪・炭・栗・柿・銀・銅など能勢の山村で生産された物資を能勢から大阪へ、逆に衣類・塩・魚などを大阪から能勢へ運ぶための生活路として利用されました。

街道沿いに立つ地蔵道しるべ。奈良・伊勢へと続く清滝街道は、現在は国道163号として知られる
街道沿いに立つ地蔵道しるべ。奈良・伊勢へと続く清滝街道は、現在は国道163号として知られる
『守口・清滝街道』
 大和と北河内を結ぶ街道として、古くからその道筋を持つ街道です。この街道のもととなったのは、奈良時代の僧行基がつくった「行基道」と伝えられています。行基は、庶民に広く仏教の教えを説き、平城京へと通じるこの道を整備しました。現在、国道163号がこの街道に沿った道筋をとっています。

天王寺方面から奈良方面に向かう主要幹線道路だった奈良街道
天王寺方面から奈良方面に向かう主要幹線道路だった奈良街道
『奈良街道』
 現在の国号25号に相当する、大阪から奈良へと至る街道筋。大阪天王寺を起点とし、八尾、柏原を抜けて、奈良の王寺町へと通じています。

田尻町に残る古い街並
田尻町に残る古い街並
『孝子越街道』
 泉佐野より南下して、孝子峠を越えて和歌山へ通じる道。江戸時代の地誌『五畿内志』では、浜に沿って流れる官道として扱われています。


熊野街道
 摂津国渡辺津(現在の大阪市中央区)を起点として、紀州熊野へと至る街道。
 
西高野街道
 堺から高野山へと向かう参拝道。平安末期以降の高僧たちに、広く利用されました。
 
丹州街道
 池田市から能勢を経て、兵庫県篠山へ通じる街道。しかし、時代によっては道筋が大きく違っていることもありました。
 
亀岡街道
 亀岡街道と呼ばれるようになったのは、明治25年からです。大阪を発し、高槻、茨木を抜けて亀岡へと通じています。
 
清坂街道
 茨木・大阪から清坂峠を越えて亀岡へと至る街道。
 
磐船街道
 大阪府の枚方と奈良県の生駒を結ぶ街道。
 
河内街道
 河内街道というのは、明治時代につけられた名称。北・中河内の集落をつなぐ生活道路として、庶民に利用されていました。
 
古堤街道
 大阪より大和地方北部へと通じる道筋をもつ街道。

暗越奈良街道
 古代より存在していた道。大阪と奈良との最短経路で、江戸時代に整備されてからは、旅客や貨物を運ぶ重要な交通路でした。

俊徳・十三街道
 四天王寺を起点とし、奈良県斑鳩町を終点とした街道。俊徳街道と同質の街道である十三街道を併せて考えたことから、付いた名称です。

中高野街道
 北河内の守口から河内郡の中央部を南下して、高野山へと通じる参詣道。
 
富田林街道
 基礎となる道は、南大和と河内を結ぶ道として古代から存在。この名称が使われはじめたのは、明治25年になってからです。

父鬼街道
 明治25年の『大阪府統計書』によって、その名称が設定されました。起点は堺市で鍋谷峠を越えて、和歌山へと南下する街道です。

粉河街道
 和泉国と紀伊国を結んだ生活道路。また、霊場や寺社にも通じており、参詣道としても多く利用されました。

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