大阪国道事務所の歴史

大阪国道事務所の歴史

沿革

大阪国道工事事務所(現 大阪国道事務所)は、大阪市周辺の直轄国道の整備を目的として、昭和33年(1958年)6月1日に、当時西区肥後橋にあった近畿地方建設局(現 近畿地方整備局)の一室に設けられました。その後、同年の8月には南区末吉橋(現 中央区南船場)へ移転。翌年4月には東区杉山町(現 大阪市中央区大阪城)に再移転し、本格的な業務体制を確立しました。

西区肥後橋(土佐堀)にあった庁舎

南区末吉橋(現 心斎橋東急ビル)に移転

大阪城のすぐ近くに移転

事務所設置時の状況

大阪国道工事事務所の設置目的は、当初から、大阪市周辺の主要な直轄国道の整備でした。設置時の管轄区域は国道1号、2号、25号、26号の4路線(道路延長140.2km)で、主な業務内容は指定区間内の国道の維持管理※及び国道1号枚方バイパスの建設でした。
※国道といっても、国がすべてを管理するのではなく、国道の中でも政令で指定された道路区間(指定区間)を国が管理し、それ以外の区間(指定区間外)を都道府県または政令指定都市が管理することになっています。

業務増加による分離

時代は高度経済成長期を迎え、自動車交通が急激な伸びを見せ始めます。昭和40年(1965年)には、5年後に大阪で万国博覧会を開催することが決定しました。そこで予想される交通混雑に対処するため、直轄国道においても大規模バイパス(枚方、寝屋川、浪速、池田、第二阪和国道)などの事業の推進を図りました。この時期は、大阪国道工事事務所の隆盛期であったとも言えます。
昭和43年(1968年)には、万博関連事業における事業量の増加と管理業務の複雑化に伴い、二つの事務所へと分離を行いました。こうして誕生したのが、管理を主体とする大阪国道工事事務所と、改築※を担当する浪速国道工事事務所(現 浪速国道事務所)でした。
※一般的な意味と異なり、道路の新設を含みます。

再移転と組織再編、21世紀へ

昭和44年(1969年)、大阪国道工事事務所は城東区の現在地に移転します。1970年代は2度にわたるオイルショックにより日本経済が曲がり角を迎える時期でしたが、大阪国道管内ではバイパスの建設ラッシュで、171号池田バイパス、1号寝屋川バイパス、25号浪速バイパスがこの頃に設置されています。
平成13年(2001年)の中央省庁再編により、建設省が運輸省と統合されて国土交通省に、出先機関である近畿地方建設局も近畿地方整備局になりました。大阪国道工事事務所は、平成15年(2003年)に大阪国道事務所に改称されました。この時期の大きな出来事としては、新桜宮橋(新銀橋)の完成、1号第二京阪道路の全面供用開始があります。
平成24年(2012年)4月、大阪のメインストリートである御堂筋の管理が国(大阪国道事務所)から大阪市に移りました。

現在の大阪国道事務所

平成27年4月1日現在の大阪国道事務所は、事務所長、副所長(事務1名・技術2名)、統括保全対策官、事業対策官、保全対策官(管理第一・管理第二)、建設専門官(総務・経理・用地・管理第一)、上席専門職、建設監督官3名、9課、4出張所からなる組織です。近畿地方整備局管内の国道事務所では最大規模を擁します。
事務所の管理する国道は、国道1号、2号、25号、26号、43号、163号、165号、171号、176号、481号の10路線(道路延長 218.6km)です。
主な事業内容は、これら10路線における日常の道路管理や災害時の対応、道路空間の整備(共同溝の設置、無電柱化の推進)や利用規制(道路の占用許可や特殊車両の通行規制)、交通安全対策(交差点改良、歩道整備)、渋滞・道路環境対策です。

過去の主な事業紹介

旧一般国道1号改築工事(枚方バイパス建設)

戦後、日本経済が著しい発展を遂げ、自動車の交通量も大幅に増加しました。これに伴い、2車線であった旧国道1号(現 京都府道・大阪府道13号京都守口線)は、交通上のネックになっていました。そこで計画されたのが、京都市伏見区から久御山町、八幡町(現 八幡市)を経て枚方市中振へ至る「枚方バイパス」でした。枚方バイパスは近畿地方建設局が手掛けた最初のバイパスで、昭和33年(1958年)に着工し、8年後の昭和41年(1966年)3月に、全線全幅(16.0m・4車線)の供用を開始しました。
大阪国道工事事務所は、この事業において府境を超えて大阪府内~京都府内の延長20kmの全区間を施工し、木津川大橋、宇治川大橋の長大橋をはじめ、幾多の難工事を克服し、完成へとこぎ着けました。

一般国道25号改築工事(浪速バイパス建設)

本事業では、大阪市阿倍野区天王寺町南一丁目の附属天王寺小学校前交差点から、東住吉区の杭全(くまた)交差点までの延長約2km(バイパス区間としては桑津4東交差点まで)を都市計画幅員30mに拡幅しました。道路内の内訳は、車道9.5m×2=19.0m、中央分離帯2.0m、歩道4.5m×2=9.0mです。
浪速バイパスの着工計画については、昭和36年(1961年)頃から大阪市との間で話があり、翌年には建設省の担当も決定しました。バイパス予定地の用地買収を経て、昭和41年(1966年)から本格的に工事を開始し、昭和47年(1972年)6月にバイパス区間1.591kmの供用を開始しました。

一般国道1号(枚方バイパス)規格改良事業

枚方バイパスは昭和41年(1966年)の全線供用開始後も開発が進み、沿道には各種企業団地や多数の工場、レジャー施設などが立ち並ぶ国道となりました。また付近の宅地開発に伴い、歩行者や自転車通行者も大幅に増加したことにより、事故防止のための交通安全施設の整備が求められ、昭和47年(1972年)に中央分離帯・歩道等を設置する道路拡幅・交差点改良の整備計画が立案されました。 計画区間は、枚方市長尾から中振までの延長9.2kmにわたり、幅員を16mから標準断面25mに拡幅するもので、昭和50年(1975年)に歩道と中央分離帯が設置されました。

一般国道2号曽根崎新地プロムナード整備事業(アメニティ)

地域住民から、環境の改善と交通安全対策の強化の要望が強かった国道2号(梅田新道交差点~桜橋交差点)の整備を行ったのが本事業です。地域住民をはじめ、大阪府警、大阪市などとも協力を図り、路上の清掃作業を実施するとともに、大阪の玄関口にふさわしい景観で、歩行者が安全かつ快適に利用できるように、昭和62年(1987年)に緑道を設置しました。

新銀橋の建設

大川(旧淀川)を東西にまたぐ国道1号桜宮橋は、「銀橋」の愛称で市民に親しまれていましたが、片側2車線の道路であり、交通量の増加に伴い渋滞が慢性化しており、輸送力の強化が課題になっていました。そこで、銀橋を含む区間0.7㎞を拡幅し、銀橋の上流に新たな橋を隣接して架ける事業が開始されました。新銀橋のデザインは市民のアンケート結果を踏まえ、銀橋と同じアーチ橋と決まり、大阪出身の建築家安藤忠雄氏のデザインコンセプトをもとに、現況のイメージを損わない、スレンダーな橋の建設工事が平成11年(1999年)に始められ、平成18年(2006年)12月に完成しました。

詳しくは銀橋サイトへ

銀橋と新銀橋(右)

銀橋と桜

大阪国道管内の共同溝建設事業

道路の地下に埋設された管やケーブル類の工事を行う際には、道路の掘り返しや占用が必要となり、道路の損傷が著しいだけでなく、道路交通上も大きな障害となっていました。そこで、昭和30年代から検討され始めたのが、管やケーブル類を一括して道路の下に収容する共同溝の建設事業でした。第二阪神国道(国道43号)の尼崎地区において共同溝が試みられたのを機会に、大規模な改築や地下鉄工事等が行われる場合には、共同溝の設置を推進する動きが強まり、昭和38年(1963年)には「共同溝の整備等に関する特別措置法」が制定されました。

当初は上下水道、電気、ガス、電話など各公益物件の管理者が、コストや安全性の面から積極的な姿勢をみせませんでしたが、昭和45年(1970年)の地下鉄谷町線の天六ガス爆発事故を教訓として、共同溝への関心が強まりました。これ以降、大阪においても共同溝建設事業のための検討・調整が積極的に進められることになりました。

大阪国道事務所では、昭和48年(1973年)から、国道1号の守口・城東の共同溝建設事業に着手しました。昭和53年(1978年)には大日共同溝にも着手し、昭和57年(1982年)に、一連区間として6.9km(大日・守口・城東)を完成させました。

城東共同溝

守口共同溝

その他の路線においては、国道2号の福島・淀川共同溝(延長6.8㎞)をはじめ、直轄国道の要所に共同溝を設置しました。平成26年には、大阪市のメインストリートである御堂筋の地下に御堂筋共同溝(延長3.9㎞)を完成させました。

御堂筋共同溝立坑

梅田・難波間を結ぶ共同溝

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