EPISODE01

明らかになった
被災当時の
湊川高等実業女学校の
所在地

注)学校法人 湊川相野学園HP「学園のあゆみ」を一部抜粋・加筆
 大正8(1919)年に開校し、大正10(1921)年3月、湊川裁縫女学校と改称し、翌11年には神戸市灘区福住通5丁目10に新校舎を建設・移転しました。
 昭和3(1928)年には、文部省から甲種実業女学校の認可を受け、湊川高等女子職業学校と改称、さらに同5年に湊川高等実業女学校と校名を改め、その後校舎を増築・拡張し、生徒数も増加していた昭和13(1938)年に阪神大水害で被災。教員2名生徒8名が殉難。学舎の移転のやむなきにいたっています。
 湊川高等実業女学校の被災状況は、非常に激しいものでした。当時の状況を記録した写真からもその壮絶さとともに、学校を挙げて犠牲者を悼む姿が確認できます。
注)写真は当時の在校生 坂田 栄さんより提供
注)写真左はインタビューの状況 右は坂田 栄さんより提供

 阪神大水害から80年を契機とする情報の提供を呼び掛ける中で、当時の在校生 坂田 栄さんから当時のお話や写真を提供いただく機会を得ました。
 インタビューの内容は本アーカイブに収蔵しています。

 坂田さんからのお話を伺っているうちに、すでに事務局で保有していた湊川高等実業女学校の写真に示された当時の住所(灘区高尾通)と証言との不整合を感じることになりました。
注)左は坂田 栄さんより提供いただいたもの 山麓とは少し距離があるように見える

 記録に残っている高尾通は、都賀川右支流杣谷川の西側に位置し、六甲山系の山麓から極めて近い位置にありますが、坂田さんのお話では、現在の福住通周辺にあったとおっしゃいます。

 また、坂田さんは当時の登校ルートまでしっかりと記憶されており、自宅のある長田区から市電で、終点の「上筒井」まで行き、晴れた日は徒歩で登校したと証言されました。仮に校舎が高尾通にあると、かなりの距離を歩くことになります。

 さらに、所在地や当時の災害地図を見ると坂田さんが書いた校舎位置及び周辺の被害状況が一致することがわかり、被災当時の女学校の位置は灘区福住通であることが判明したのです。