神戸市東灘区

自治会の活動をとおして防災意識を共有化

(内田)
 私は、当時19歳、大学生でした。私が今住んでいる家は、当時祖父母が住んでいた家で、その裏山が崩れたんです。白鶴美術館のすぐ裏側で、山がギリギリまでせまっている場所ですから、今でしたら建築許可がおりないでしょうね。
 当時私は、少し下の方に住んでいまして、夜中にすごい雨が降ってるなあって思っていたら、明け方に「山が崩れた」って知らせが入ったんですね。それで大変だってことで、両親に「お前見てこい」って言われて祖母宅まで上がっていったんです。10時頃でしたが、道を水が流れていて、道の脇には土砂が20cmくらいたまっていました。登っていくにつれて災害地独特の匂い、泥くさい匂いがしてたのを覚えています。なんとかたどり着いたら、祖母が台所の土間を一所懸命に拭いていました。当時水車用の水路が崖と祖母宅の間を流れていまして、崩れた土砂が塞き止める形になって水と土砂が家を突き抜けたんです。うちは台所の土間に水が上がったくらいですんだのですが、ご近所では床上まで浸水したようです。家の前にあったコンクリートの壁にせき止められて水が溜まったので、削って水を流したって聞きました。それ以降は大雨の時は住吉川からの取水口を止めてます。裏に防災のために家を建てられない避け地をつくったり、県の治山治水事業で法面対策をやってくれまして、それ以降は崩れていないです。
 その時はそんなに大層な災害だなんて思っていなかったですが、その後市ケ原の状況等が大々的に報道されて、一連の大災害やったんやって思った記憶があります。このあたりも亡くなった方はいらっしゃいます。東灘区で救助中の警察官が埋まって亡くなったとか、赤塚でお子さんが埋まってしまったのを神戸大学住吉寮の学生が遺体を掘り出したと聞いています。

(前田)
 僕は高校1年生の時で、夕方学校から帰ってきた時はまだそんなに降っていなかった。7時ごろから、バケツをひっくり返したような、それまでと全然違う降り方でした。ちょうど父親が町内会の役員をしてまして、朝の3時ごろに大雨で山が崩れたから炊き出しをしてくれって連絡があって、母が大阪風の俵型のおむすびを作って、父はそれを持って出かけて行きました。このあたりの町内会は災害に慣れているので、対応が早いんですよ。朝には雨はもう降っていなくて、普通に学校へ行ったと記憶しています。国鉄は動いてましたから。

(内田)
 阪急は2週間ばかり不通になって、西灘で折り返してたかな。当時大学に入って、夏休みのアルバイトに春日野道駅にあった加美乃素の工場に行くことになってたのが行けなかったのでよく覚えています。アルバイト期間が2週間で最後にやっと復旧しました。
 あと、洪水で冠水した道路を歩いている人が、突然いなくなるというニュースがありました。マンホールの蓋が開いていて、吸い込まれたんです。蓋をあけた人は、少しでもは早く水をぬきたかったのでしょう。吸い込まれた方のご遺体は天神川で発見されたと。裁判にもなりまして、大変複雑な思いをしました。
 昭和13年の時には、阪急の鉄橋のところがちょうど平地になっていて、そこに土砂がたまって左右に水があふれた。それから住吉川の上流に五助砂防堰堤ができて、昭和42年豪雨災害のときにはしっかり土砂を止めてくれた。住吉川の本流は五助が止めてくれたんですが、住吉台や赤塚の方は今では宅地造成されてますけど当時はまったくの山で、そこを水が流れてきて若宮神社のとこに落ちるんですよ。そして最終的に深田池の方に流れていく。深田池は半分くらい土砂で埋まってしまって、当時高級料亭があってそこも被害にあった。深田池が決壊寸前になって放流したのが御影石町の床上浸水になった。住吉川にもそれくらいの土砂が流れたのを、五助砂防堰堤がよくぞとめたって感じですね。
僕らの子供のころはまったくの山だったところが宅地造成が進んで、住吉台とか赤塚の造成地とか新しい人がほとんどで、災害のことはほとんど知らないでしょうね。
 住吉歴史資料館では年に一度、小学校が2校、中学校が1校、生徒さんを呼んでお茶会をしています。その時に災害の展示とかもやりまして、昭和13年の災害の後に甲南大学の学長をされていた平生釟三郎さんのおっしゃった「常ニ備ヘヨ」をスローガンとして伝えています。この言葉は覚えやすいうえに、端的にすべてを言ってくれるすごい言葉でしょ。学校に石碑がありますから一度見に行ってもらいたいですね。人間はすぐに忘れてしまうので、石碑をみて常に思いだして欲しいです。