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六甲山のおいたち

六甲山の誕生

六甲山の形成モデル説明図

六甲山のあった場所は、以前は低い丘でした。それが、今からおよそ100万年前から、六甲山一帯に東西方向の強い圧力が加わり、その結果、六甲は上昇して丘から山地に成長。大阪湾は沈みました。これを六甲変動と呼びます。六甲山に多い断層は、この時にできたものです。

六甲山の大部分は花崗岩でできています。花崗岩はふつうは固くて安定した岩石を形成しているのですが、六甲変動により花崗岩は破壊されてもろくなり、長い年月の風化作用によってマサ化し砂山のようになっています。

六甲山形成図
六甲山の地質断面図

六甲山地質分布図

地質分布図
六甲山地質分布図PDFファイル(940KB)

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六甲山の緑の歴史

原始林(縄文〜弥生)の時代

弥生時代に稲作農耕がはじまるまで、六甲山系周辺はほとんど人の手が入ることのない、うっそうとした原始林が広がっていました。

山頂付近にはブナ・ミズナラなどの林が、標高600〜800m付近にはモミ・コウヤマキ・イヌブナ・コナラなどの針葉樹・広葉樹がまじり合った林が広がり、中腹から山麓にかけてアカガシ・ウラジロガシなどのカシ類や、シイなどからなる照葉樹林が繁っていました。

二次林(中世)の時代

稲作農耕がはじまると、平地では荘園を中心とする集落が広がり、山麓の自然の照葉樹林が切り倒されて、しだいにアカマツ中心の二次林が広がっていきました。このマツ林は、クヌギやコナラなどの林とともに、まきや炭などに利用され、人々に大切に保護されていました。

中世はまた戦乱の時代でもあり、六甲山系にもいくつかの山城がきずかれ、山麓から山頂は合戦の舞台となりました。こうしたことは自然林にも大きな影響をあたえました。城がきずかれるたびに切り倒され、戦火による山火事などがおこったりして、自然林は回復できないくらいに破壊されてしまったのです。そして、自然林が滅んでしまった所にはアカマツ林が形成されていきました。

草木のない山(近世)の時代

江戸〜明治時代の六甲山系は、南斜面のアカマツ林と大龍寺、天上寺付近の林をのぞいて、山頂までほとんど草木のない山でした。

このように六甲山系が草木のない山になったのは、当時の農民が燃料や肥料に利用するため、山の斜面から山頂に広がる村の共有地に入ってマツなどの樹木や落ち葉、下草をとり、さらには夜なべ仕事の灯りに必要な油となるマツの根までとりつくしてしまった結果だと考えられています。

植林(明治35年以降)の時代

六甲山系で植林がはじめられたのは明治35年(1902)のこと。草木が育っていない砂漠のような山肌に階段のような段々が切られ、土砂が流れないように積み石で固定して、マツをはじめヒノキ、スギ、カシ、シイ、ハゼ、カエデなどの苗木が植えられました。

六甲山系の植林は、山火事や戦争、集中豪雨、マツクイムシによる被害など多くの苦難をのりこえて今日にいたっています。

現在

約90年の年月をかけて草木のない山から緑豊かな山に復元された六甲山系。この緑の大部分はアカマツとコナラの林で、最高峰付近には、ブナ−イヌブナ林、大龍寺、天上寺周辺には、スダジイ−アカガシ林など自然に近い林も育っています。これらの林をつくる樹木や草木類は、四季おりおりに花を咲かせ、秋には見事な紅葉で私たちの目を楽しませてくれます。

また、六甲山系には、ここでしか見られないアリマウマノスズクサやロッコウコツクバネ、すがたを消しつつあるユリの仲間、絶滅に近いカキラン、スイラン、サギソウなどの湿地植物といった、貴重な植物が生育しています。

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マサ化
花崗岩は、地下でマグマがゆっくりと冷えてできた岩石で、大きさのそろった、ガラス質を含まない完全結晶の粗い粒状の鉱物が集まってできています。このような岩石の表面が気温の変化で膨張と収縮を繰り返せば、鉱物ごとに膨張率は違うので、鉱物粒の間に歪みができて崩れ、粗い砂粒になります。この過程を「マサ化」といいます。   [ 読んでいたところへ戻る ]