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ホーム > 知る・歴史 > 紀の川のむかし> 紀の川の歴史 紀の川の水運と木材流送 |
4.紀の川の水運と木材流送 |
『紀伊国名所図会』に「川上船、橋本町より出す。橋本は、府下より勢州街道の十有余里に在りて、公私運送の荷物常に往来し、且つ和州より府下に船積の荷物、全てここにて積みかへ、当所よりも別 に府下に乗せ下す。是を川上船という。又旅人の便船あり、皆一日にして府下に達す」とある。川上船の運送物資は、下流から三葛塩をはじめ、綛糸、肥料、米、青物など、上流からは板、高野紙、凍豆腐、実綿、煙草、茶、川上酒、大谷絣、中流では麻生津の蜜柑、粉河酢などの特産物が運ばれた。さらに吉野・高野材は筏流により紀の川河口に集積された。 川上船は30石船の帆船で、全国的に一般に利用されたもので、淀川の過書船、大和川の剣先船などと規模は同じである。杉材を利用した長さ5.5間(10m)、幅7−8尺(2.6m)で前に屋形があり、深さ2尺(60cm)で糸綱20mで両岸を引っぱりのぼり、また風の方向で帆をはった。1艘に2人乗で3艘が1組であった。明治8年(1875)の「借船証書之事」(九度山町、野口家文書)には「川船二艘について、帆一文、帆縄、ろかい四丁、笘二通 、鍋釜二枚、むろ数、竹ス二枚、ドマイ一、帆柱一本、シュロ縄二本、家形二組」を備えたとある 。 橋本の川上船は、次ように30〜60艘はあり、また九度山にも10〜15艘があった。
明治16年(1883)の『明治24年徴発物件一覧表』による50石以下の日本型船舶数は、紀の川流域で480艘、うち5艘以上をもつ港津は、橋本、学文路、九度山、三谷、荒見、麻生津、北島、小豆島であった。 川船の運賃は、橋本から若山まで寛永8年(1631)銀5匁(橋本・池永家文書)、文化14年(1817)は銀24匁と高騰している。 文政4年(1821)には荷物10駄積舟賃7匁で15駄まで積込可能であり、人差船1艘14人乗舟賃580文で、1人前40文となる。27人までは乗込可能であった。 船賃の高騰が慶応3年(1867)には10年前より8〜9倍になったので粉河組の農民・商人・役人が賃下げ要求を行っている(粉河町八塚家文書『粉河町史・第3巻』)。 紀の川の横渡しは、明暦元年(1655)橋本の「横渡船之御制札写」(橋本市平林家文書『和歌山県史・近世史料2』)には、「つな渡しの時は一人前一文、水一の杭頭迄まし候時は一人五文、水二の杭頭迄まし候時は一人十二文たるへき事、また馬は、いつにても人に一倍たるべき事」とある。しかし元禄10年(1697)には「東家・橋本横渡し無銭に相成候」(橋本市一色家文書)となった。 さらに筏賃は、「下市村より筏上荷わか山へ直通り乗ちん」(橋本市・土屋家文書)は次のとおりであった。
橋本塩市は橋本川左岸の川原町の船宿、筏宿があり、市恵比寿神社を守護神とし、川原町所有の「舟山車」は10月14、15日の秋祭として川上舟の歴史を残す無形文化財である。 橋本はまた高野参詣の渡河点で、京からの東高野街道、堺からの西高野街道そして平野町からの中高野街道は河内三日市で集まり紀見峠を南下して東家に入り、紀の川南岸の二軒茶屋、三軒茶屋より学文路の玉 屋より苅萱堂をへて近世には河根の千石橋を渡り神谷経由で高野山女人堂に達した。一方、城下若山からは紀の川にそう大和街道が、名手本陣をへて橋本の池永家本陣をへて五條の中家本陣を通 り三在より高見越で松阪をへて宮より.東海道により江戸へ向う参勤交代路があった。 橋本は陸上交通、水上交通の要衝として商業的在町として発達した地理的位置にあって繁栄した。いまは大阪大都市圏の衛星都市として南海高野線による通 勤圏に変貌している。 紀の川水運の中流の港は粉河で、古代の鎌垣船として著名で東・西鎌垣村である。 粉河酒・酢・木綿・足袋などの在町の商品生産は紀の川中流の商業町として発達し、紀の川水運の港としても栄えた。 城下町は、『南紀徳川史』には「府内およそ東西21町余、南北25町、市街竃7,480軒、弘化3年改(1846)には諸士屋敷およそ1,200戸、丸ノ内ならびに吹上、宇治、広瀬、新堀等に在」とある。 城下町の古図から武家屋敷と町人屋敷の面積比は37:27%と武家屋敷が多い。「屋敷なき藩士は所々に散在す。その数およそ480戸」とあり、武家屋敷が町屋に混入する状態であった。城下町には天守閣を中心に上級武家屋敷が内堀内に立地するが、他方上級武家屋敷やその他の士族屋敷も口絵8のように分散し、城下町プラン(矢守一彦(1970)『都市プランの研究』)にいう多核的城下町プランに位 置づけられている。町割の基本型は長方形の竪町で、一ノ橋から本町通にみられ、寄合橋周辺は「表行4間、裏行12間」の長方形の街区で、1間=6尺5寸(1.97m)の京間を使用し、さらに時代によって和歌川東部の北新町、新町では享保20年(1735)に6尺3寸(1.9m)の浅野時代の用尺となっている。町割も寄合橋の東部で、東西65間、南北36間(奥行17間×2)、西部の湊本町では東西60間、南北30間(奥行15間×2)の長方形街区になっている。 士族屋敷と町人町を分け、外堀の役割を果たした堀川は、延長1.2km、川幅24−40mの紀の川河口と和歌川(旧紀の川河道)を結ぶ運河で、城下への物資輸送の重要な役割を果 たし、京橋から西の納屋河岸、寄合橋付近の西河岸、久保町付近の昌平河岸が中心であった。紀州藩の専売制である御仕入方役所は元禄13年(1700)窮民救済を目的に主に南紀の木炭などの林産物を商ったが享保15年(1730)には伝法橋たもとに元役所が設置され、舟蔵・米蔵がたち、橋本との川上船水運と上方航路の結節点ともなった。 『紀藩衛官司秘鑑』嘉永元年写(国立公文書館所蔵文書)には「町湊家数、内町広瀬三千八百軒余、湊四百四拾軒余で総合四千九百四拾軒余、馬九拾一匹に対し町中船数は廻船九、小船七、漁船六八、釣船三七、盾船二三、川船二三、合一八五艘で年々増減有」とある。また若山湊の廻船は300石船で4〜5人乗が平均であった(『和歌山市史』第6巻)。年不詳の『諸国御客船帳』(島根県浜田市、清水家文書)には、若山湊の船は西廻航路の浜田港清水屋をへて越後方面 への米、芋等の運搬が特色であった。 明治12年(1879)の『共武政表』には和歌山区で、汽船71、帆船593、西洋型船舶1とあり、『県統計書』では明治30年(1897)12月現在の50石以上の日本型船は、県全体574隻のうち和歌山が159隻、うち汽船2、帆船3隻で明治後半に和歌山港の船舶数は激減している。 明治15年(1882)の若山湊の出荷量は綿織物と木材を主とし、出入船舶は汽船1,252隻、34万700t、帆船640隻、3万8390t、石積船7580隻、3万9138tで計9472隻、41万8228tである。当時の移出入は、米を大阪から4500石、塩は撫養から9万8800俵、石炭は若松から3453万斤、綿花は神戸から1162万4600斤で、全体として綿花の移入が90%を占め、和歌山市内の綿紡績工業の最盛期をしめしている。移出は吉野材を主としたものでこれは紀の川の木材搬送によるものである(『和歌山県統計書』『和歌山県史』近現代史料6)。 木材の搬送は、吉野材を天正11年(1583)の大坂城・伏見城の造営の貢納材に起源し、商業的市場への進出は文禄4年(1595)の太閤検地以後といわれる。 木材は鉄砲堰で下流に流した。宝暦年間に吉野郡小川郷の池田五良兵衛の発想といわれる。いまでも岩盤に堰をした木穴がみられる。 紀の川の筏流しは、上乗り(和田〜東川)、中乗り(東川〜飯貝)、下乗り(飯貝〜和歌山)と呼ばれ、2月から3月にかけて多かった。夏季は農業灌漑のため水量 少なく不可能であった。 吉野川上流の川上・黒滝郷、小川郷から筏で上市、六田、五條、橋本、岩出の中継地をへて若山荷受問屋の河口まで4〜5日を要した。延宝9年(1681)の紀州藩25軒の木材問屋のうち、若山湊では明和元年(1764)から天明8年(1789)には5軒存在した。材木の流通 は、吉野山元荷主問屋→若山荷受問屋→大坂仲買問屋の順で取引をし、若山より大坂へは7軒の船持が特権をもっていた(藤田叔民(1973)『近世木材流通 史の研究』)。 |
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