亀の瀬では明治以降も数回、大きな地すべりが起きています
地すべりの兆候は昭和6年9月ごろからあり、ついに11月柏原市の峠地区を中心に約32haにおよぶ山塊が大和川に向かってすべり始めました。翌昭和7年に入り活動はさらに活発化し、旧国鉄(現JR)関西本線の亀の瀬トンネルが崩壊、大和川の河床隆起が顕著となり、2月中旬、上流奈良県の大正橋の一部が冠水。国は梅雨時期の出水に備えて河床掘削工事を実施しましたが、7月の豪雨により地すべりがさらに活発化し、大和川の河床が9m以上隆起しました。これにより大和川は完全に閉塞し上流部の王寺町あたりは浸水しダム湖のようになりました。その後、地すべり活動は沈静化したように見えましたが、翌8年6月に再び新明神山トンネルに亀裂が発生しました。この間、人家は倒壊、田畑は亀裂・陥没して作物は全滅しました。鉄道は地すべりで不通となり、道路も寸断され、地域の人々は生活していくためのほぼすべてを失いました。
大和川の災害復旧工事は昭和9年3月末まで続き、関西本線の複線は昭和10年12月下旬まで運転再開ができませんでした。このように、当時の方々は一度すべりだしたら止まらない地すべりの怖さを体験したのでした。
- 人家の倒壊
- 畑地の亀裂
亀の瀬地すべり地内を通過していた旧国鉄(現JR)関西本線の亀の瀬トンネルも崩壊し、昭和7年2月から11カ月間、約1kmが徒歩区間となりました。復旧工事では、亀の瀬地すべり地を迂回した現在の新ルートが左岸側に新設され、旧ルートの亀の瀬トンネルは廃棄されました。
約120年前につくられ、当時の地すべりで圧壊したと思われていた亀の瀬トンネルがそのままの状態で平成20年発見されました。
昭和7年7月に発生した地すべりでは約30ha、甲子園球場の20倍もの広さの土がすべり落ちました。河床が9m以上隆起し、大和川は完全に閉塞し、上流はダム湖と化しました。現在の大和川の流れは、このときに左岸の明神山を削り取って新たに開削したものです。
この地すべりは被害規模の大きさで日本中の大きな話題となり、多い日には1日2万人もの見物客が押し寄せた。
テレビのない時代の最新の写真ニュースとして地すべり写真の絵ハガキ等が発行された。