1992年の入賞作品

作文部門2

<優秀賞 大和川工事事務所長賞>

「大和川クリーンキャンペーン」

 
大阪市立矢田中学校1年

ぼくは、大和川クリーンキャンペーンにいって実感したことは、心の中で、本当に大和川はきたないと思った。
ぼくは、あんまり大和川にいってなかったからたんにきたないんだなあと思っていただけでした。
でも、大和川で掃除してみてほんとうにきたないと分かりました。
川縁、川底、川、全部がとてもきたなかったです。川縁には、ゴミがいっぱい捨ててありました。川には、ゴミが浮かんでいたり、よごれて川底が見えない、それほどきたない川でした。これでもまだこれよりきたない川がもう一つあるというのは、とてもおぞましいです。しかし、この川がきたなくなったのは、もともと、我々のせいではないでしょうか。なにげなく捨てたゴミがこの川をきたなくしたのではないでしょうか。海だって工場廃水でよごされたり、石油タンクの船が、しずんだ時に海はよごれ、魚は死に、そうやって人々は、自然を破かいしているのではないでしょうか。世界からみれば大和川は、とても小さな川です。しかし、その小さい一つ一つを守り、きれいにしていけば、少しずつそれが大きくなり、世界中がきれいになり、地球が正常になるのではないでしょうか。
それに、このまま自然破かいをつづけるとオゾン層がこわれ、人々がガンになりやすくなります。
だから、一人一人の努力が大切なのです。一人一人が努力し、ゴミをひろい、自然をきれいにしていなければいけないのではないでしょうか。大阪の水源のびわ湖でも、ゴミ問題があるのです。その一歩として、私達が、大和川をきれいにし、そのてほんとならなければいけないのです。そのために、大和川をきれいにし、昔のように、泳げるきれいな川にしたいです。

<優秀賞 大和川工事事務所長賞>

「大和川はたった一つ」

王寺町立王寺小学校5年

「きったないなあ。」
今、いる所は大和川の、真ん前。あちらこちらにゴミが落ちている。きっとゴミを落としたのは、人間だ。奈良県のだれかだ。大和川は、ゴミをすてる所じゃない、すてればだれかが拾わなきゃいけないんだ。そうー。だれかがー、みんなの大和川、一つしかない大和川。すてられた、空きかんやゴミはどうなるのだろう。
どうしてすてるのか、どうしてゴミばこにすてないのだろう。ぎ問。ぎ問。ぎ問だらけだ。
大和川は、たった一つー。たったー。大切にしなくちゃいけない。大切な、神様からのおくりもの。人間は、まちがっているんだ。大和川の使い方。もっといいことに使おうよ。もっといいことにー。今からでもおそくない。でも…。みんなでやれば、あっという間ー。みんなですると、早いのに…。もっと考えてよ。自分達の住む王寺町。みんなで力を合わし、がんばろうよ。みんなの大和川をきれいにしょうよ。たった一つ。大和川はー。
大和川が泣いている。
「助けて…。苦しいよ~。助けて…!!」
大和川は、さけんでいる。
「ごみをすてないでよー。あっ。そこのおじさん。ゴミはゴミばこにすてるんだよ。」
大和川がかわいそう。
未来の大和川の様子は、どんなふうになっているかな。大和川が、泣いていないかな?泣いていないよね。ピッカピッカになっているよね。そのことを願うのー。未来はすぐそこ。もうすぐ。早くしなくちゃ。大和川がかわいそう。
神様のー。ううん。みんなのもの。大切に使ってあげて。大和川をー。大和川は、みんなのもの。あなたのものじゃない。みんなのものなの、大和川はー。だから大切にしてね。


<優秀賞 大和川工事事務所長賞>

「心のやすらぎ-くらしの水辺」

賢明学院中学校1年

この作文の題でもあるように川は「心のやすらぎ」「くらしの水辺」です。今、地球サミットが行われています。川の事は直せつ的には関係ないかもしれません。でもなんだかの形では、つながっているんではないか?と思うのです。川は私たちにとっては、かかせないものです。どうしてかそれは、私たちのくらしをやくだてていくのに必要だからです。私達のくらしといえばまず飲み水です。水道からでる水、この水は大和川からきている水です。私達はこの水で顔をあらい、お米をといだり、料理につかったりしています。だからわからないかもしれませんが、私の聞いた話で「うちの子は、堺市のおばあちゃんの家にいくときは、水とうに水をいれてもっていくのよ。」というのがありました。なぜだか、それは、もちろん大和川(ほかの川もですが)その川がよごれているからです。私は、よく電車にのっていて大和川を見ることがあります。やっぱりきたないです。つりをしている人もいるみたいですが、魚はつれるのでしょうか。やっぱり魚だってきれいな川に住みたいでしょうし、魚をつっている人も魚がなかなかつれなくてはおもしろくありません。大和川、昔からみんなの飲み水となっている大和川、もっときれいになる方法はないのでしょうか。そんな事はありません。方法なんていっぱいあります。それは、あきかんはゴミがこにすてる、食べかすもきちんとしまつする。そうゆう簡単なことから始めてみては、どうでしょうか。「川はこころのやすらぎ」私達も、ゴミ一つおちてなくて、きれいな魚がたくさんいる川だったらどんなにきもちのいいことでしょう。これだったら安心して水ものめます。でも、そんな日がくるのはまだでずっと先のことです。まずは、目の前にあることからやってみたらいいと思います。ほら「カラーン」あきかんが転がって、川に入りそうですよしらんふりをせずきちんとゴミ箱へ。


<優秀賞 大和川工事事務所長賞>

「ひとりひとりのせいで」

王寺町立王寺小学校5年

私たちは大和川のながれる、王寺町にすんでいる。その大和川は、三ごう町と王寺町のさかいめのやくめをしている。その川はこのごろ元気がない。元気がないといっても、大和川はしゃべったりしない。でもそれは、見ただけで元気がないとすぐわかる。それは、川の中にゴミや空きカンがはいっているところがある。
夏になると花火大会をおこなう。夜だから川の色は見えない。その夜、楽しい思いで家に帰る人が多い。花火大会がおわって何日たって川をわたる人もある。その時、ああたのしかったな、と思う人も少なくない。その時、川がもっときれいなあおい色をしていたら、花火大会の楽しさが倍になってかえってくるかもしれない。そんなあおいきれいな川になるときもちよく川の上にかかっている橋をわたることができる。
地図には、大和川が青いせんでかかれている。でも実さいいって、川が青い色じゃなくちゃ色ぽい色だったら、ちょっとさびしいきもちができる。大和川、その川は、町と町のさかいめだし、花火大会で使うたいせつな川だ、その川が、一人一人のちょっとの気もちのこうどうのせいでだんだんちゃいろくなった。
私はおばあちゃんにむかしは大和川でよくおよいだこともあるとききました。今はそんなことはできない川になった、このごろは、ずっとまえよりちょっときれいになってきた。
私たち、王寺町の川、または三ごう町の川、大切にしよう。何年ごかには地図のような川であり、大きなおもいでができる花火大会にしよう。
みんなでゴミやあきかん、いえのきたない水ちゃんとしまつしてきれいな大和川にしていこう。


<優秀賞 大和川工事事務所長賞>

「大和川にたずねる」

賢明学院中学校3年

私は朝夕、阪和線を使い、登下校している。電車にのり、杉本町を過ぎると、大和川が見える。しかし、あれは川というより、ドブというイメージの方が強い。中学に上がるまであまり大和川を見たことがなかったし、深く考えたこともなかったが、近頃は大和川の水質汚染の問題が叫ばれているので、「やっぱり考えないと…。」と思う。この前、母から意外な事実を耳にした。昔、母が十才位の時、よそ行きの服に着替え、心をウキウキにさせながら、電車に乗って行き、着けば川に入って水遊びをしていたそうである。それが今では豚などの死骸を水の中に捨てて流している、というのである。今、私が登下校の際、電車から見える大和川に、よそ行きの服をきて、川に入り、楽しそうに水遊びをしている姿は夏でも見られない。そして、洗濯に使われたであろう石けん水が泡をたてながら流れていっている。今日、大和川は日本で5本の指に入るぐらい汚い川とされている。これは絶対あってはならない事実である。石けん水にしても何にしても“○○汚染”“××汚染”と叫ばれていることは、「何よ、私一人ぐらい、どうってことないじゃない。」という気持ちから来ていると思うが、それは自然にとって何の意味もない人間のエゴイスティックな弁解であると私は思っている。人間までの進化の発展の源は“水”である。人間、そしてこの世に存在する全ての生物にとって水は、自然の親のような存在であると思う。だから生物誕生の時、いや、それ以前からお世話になっている。親のような存在の“水”というものを充分意識し、今までの水質汚染についての考え方を、改めたり、深く考えたりして、人間でいえば親孝行にあたることを私は実行していきたいと思う。


<優秀賞 大和川工事事務所長賞>

「魚が住む川はどこにある」

王寺町立王寺小学校5年

私の家の前には川があります。その川の名前は、「葛下川」です。魚がぜんぜんいない川なので少しさみしい気もします。私の住む、王寺町の中で魚のいる川は、ないような気がします。しかたがありません。川を汚したのは人間、私達なのですから。家からでる洗剤やよごれた水、工場から出る水などさまざまな所から川よごす素を産み出してきているのです。工場から出るけむりは、空気を汚しているし…。私の家では、水が流れる所にあみをつけていて、大きい生ゴミなどは、流れないようにしてあります。そんなちょっとしたことが葛下川、大和川をきれいにするのにつながるのだと思います。私は、見たことがあります。橋の上から空かんを捨ててる人を…。そんな時は思わず
「こらー」などと、声を出したくなります。けれどもじっと気をしずめてがまんします。
(ひとのふりみてわがふりなおせ)ということわざがあります。
その意味は、
「自分のことは、自分でなかなかわからないものだから、ひとのふりを見て自分の行いを正しなさいとゆうことなので、ひとのいいところはみならってもわるいところはけっしてまねをしないということ。」
私は、自分の行いを正そうと思ってもなかなかできないものです。(ああ、はずかしい)
ことわざでもあるように
「ひとのふりみてわがふりなおせ」
こうして1人1人気をつけていけばきっと、葛下川の魚も帰ってくるでしょう。
いや必ず帰ってくるように願っています。


<優秀賞 大和川工事事務所長賞>

「水質検査をして、見えた大和川」

柏原市立柏原小学校5年

大和川工事事務所の人たちと、いっしょに水質検査をした。ビーカーに大和川の水をくんでみると、クリーム色をしていた。PH(ペーハー)という実験器具で川のよごれを調べてみると、8.5もあった。きたないということだ。大和川の水が下まで見える深さは、たったの26センチメートルくらいの所までだそうだ。それに対して、北海道にある「ましゅう湖」の下まで見える深さは10メートルくらいの所まですきとおっているらしい。
「大和川も、10メートルくらいすきとおって見えるくらいのきれいな川になるといいのにな。」と思った。でもわたしたちが川にポリブクロなど、いらないものを、ポイポイ捨てて、いるんだものこの全国で二番目にきたない川が、「ましゅう湖」のようなきれいなきれいな湖になるはずがないだろう。そこで、毎年「クリーンキャンペーン」などを、行っている。工事事務所の人たちも、川のゴミを拾ったりして、少しでもきれいな川にしようとがんばっている。わたしも、大和川のゴミ拾いをしたことがあるので、どんな大変な作業かは、知っている。アキカンやタバコのすった後のゴミなどがたくさん落ちていた。どうして、大和川にゴミを捨てたりするんだろう。ゴミ箱はきちんとあるのに…どんなに、工事事務所の人たちがこまっているか分からないのかな。
また、わたしがこの学習をして分かったことは、川に住む生物たちは、有き物を食べてくれるということだ。けれども、わたしたちが、川の有き物をふやしすぎると、かえって生物たちが食べきれなくて、川は、もっときたなくなってしまうということだ。
あの、きたない大和川を、そうじして、昔よりも、もっときれいな川になるといいのにな。


<優秀賞 大和川工事事務所長賞>

「今はきたない大和川」

王寺町立王寺小学校4年

今の、大和川は、せんたくのあわや、あきかんなどのゴミがたくさん水につれられて、大阪の方へ流れて行きます。
奈良が大和川を大切にしなければ、大阪に流れていく大和川の水がきたなくなります。
昔はきれいだったのに今はとてもきたないです。お母さんなんて、大和川で、およいだんだって。わたしも、大和川でおよぎたいのに…。高校生の人たちが、川にあきかんをポイすてしているのを見ました。わたしは、どういう気持ちで、そんな事をするのか考えられません。
今の地球は、ゴミの事でたくさんこまっています。前に勉強しました。でも、川にすてる事は、いけないと思います。でも今から考えると、わたしもよごしているかもしれないと思いました。川だけではなく、海も、池も真っ青な、マンガに出てくるようなきれいなきれいな水になってほしいです。
昭和五十七年に、雨のために、水があふれたのも、
「もっと川をきれいにしろ。」
と、大和川が、人間に、伝えているんだと思います。
人間の力で、大和川はもっときれいになると思います。


<優秀賞 (財)河川環境管理財団大阪事務所長賞>

「大和川は人間だけのものじゃない」

大阪市立矢田西小学校6年

ぼくは時どき大和川に犬をつれて散歩に行く。ぼくがひもをはずずと、犬は大和川にむかってとびこむ。そして、ぼくもすこしつかってみると石がヌルヌルしていた。お母さんに聞くと合成せんざいが大和川に流れこんできたからだよ、と教えてくれました。
それによく大和川ではあきかんやおかしのふくろをポイポイと川にほる人がいるから、大和川がきたなくなると思う。
もうすぐしたらアクアロード計画で3千8百億もかけて大和川をきれいにする。きれいにするのはいいと思うがやっぱしはじめからゴミを捨てなければよかったと思う。
大和川にもきれいな黄色の花がさきみだれているがそれはきたないということを表している。
それを聞くとやっぱしまだまだ大和川は、きたないんだなぁーと思う。そしたらあの鳥もきたないことを表しているのかな、と少し不安になる。けどそれは本当かもしれない。
ずっと前には鳥のしがいが流れてきたし、岸には三百ぴきぐらいボラのしがいがあった。
それに大和川の南にある川では、くさいにおいあたまらない。だから三千八百億をかけてきれいにしてほしい。けどあきかんや食べ物のふくろを捨てる人がいるかぎり大和川をきれいにしてもまた、きたなくなると思います。
今、大和川の印象はすごく悪いと思う。だから大和川をきれいにして魚や鳥がすみつく、すごく印象のいい大和川にしたいと思います。


<優秀賞 (財)河川環境管理財団大阪事務所長賞>

「私たちの大和川」

三郷町立三郷中学校3年

大和川って汚いなあ、私は小さい頃からずっとそう思っていた。汚いだけだ、と思ったこともあった。「昔はきれいだったんだよ。川で泳いだこともあったし…。人が川に物を捨てるようになってから、こんなに汚くなってしまったけどね。」私の祖母は言っていた。
ある時、私は橋を渡っていると、川に投げ捨てられた自転車が目に入った。一瞬、私は驚いた。その自転車の上にはなんと、青々とした雑草が生い茂っていたのだ。
そこがたとえ大和川の真ん中であったとしても、そこが人間の捨てたゴミの上であったとしても、少しでも多くの子孫を残すために精一杯生きる。そしてそのために大切な水を与えているのが大和川…。そこには、自然の力強さ、美しさがこめられていた。それと同時に、自分が自分勝手な人間だということを恥ずかしく思った。
大都市で水道水がおいしくないのも、人間の勝手な行動からである。川にむやみにゴミを捨てたりしなければ、薬のたくさん入った水など飲まずに済んだのだ。川の水が汚いからではない。川を汚してしまったからだ。もしかすると、これは、自分を汚されたことへの、川のせめてもの抵抗だったのかもしれない。
川の本当の美しさとは一体何なのだろうか。大和川は確かに汚れている。やはり、自然と人が共存できることが、一番の理想なのだが、人間の手によってこんなにも汚されてしまった今、私達に最も求められているのは、その汚してしまった自然と、これからどうすれば共存していけるのか、考えていく事だと思う。それを考え始めて、「心のやすらぎ」が生まれてくるのではないだろうか。