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3.6 内水面漁業

(1) 概要
 伝統産業としては、今立町五箇地区を中心とした約1500年の歴史のある越前和紙、700年の歴史に培われた武生市の打刃物業、鯖江市河和田地区を中心とした1450余年の歴史を有する越前漆器、平安時代末期にはじまり日本六古窯の一つに数えられる宮崎村の越前焼などが全国的に有名である。
(2) 越前和紙
 越前和紙は、伝説によると男大迹王のおつきの女性であった川上御前が、紙すきの技法を今立町五箇の村人に教えたのが始まりとされている。越前和紙の里である五箇地区には、紙すきの始祖神として水波能亮命(川上御前)を祭祀する大滝神社がある。
 正倉院文書の宝亀5年(774)には、紙を税として納める国の一つに越前の国の名前がみられる。これには、天平勝宝7年(755)に越前より写経用紙が税として、奈良の都へ送られていることが記されている。また、法華経100部800巻、灌頂経1部12巻などが東大寺に貢上されている。このように、古文書からみると越前では7世紀後半から8世紀前半にかけて、紙が漉かれていたことを窺い知ることができる。
 延長5年(927)には、紙原料の楮・雁皮・糊空木などが京の都へ送られている。正倉院には、天暦5年(951)越前国足羽郡庁と記された奉書風上質紙が現存している。
 越前奉書は、南北朝時代(1338年頃)に越前守護の斯波高経が道西掃部に紙漉きを命じて献上させ、その優れた紙を賞賛して奉書と命名し、それ以後出世奉書として有名になった。朝倉氏の統治時代の文明9年(1477)には、雁皮を原料として漉いた鳥の子紙を都へ送り、貴族達に大いに喜ばれた。こうして製紙業は、中世になると本格的に専業化し、紙座を形成するようになり、歴代領主の手厚い保護を受けて発展していった。
 道西掃部の子孫で三田村家の祖である大滝掃部は、織田信長に御用紙工として重用され、奉書の包紙に「七宝印」を押すことを許されていた。豊臣秀吉が天下人となり、丹羽長秀を北ノ庄に置き越前を統治させたとき、長秀も大滝掃部に奉書紙職を安堵させた。
 このように、奉書紙売買などの特権を許されている三田村家は、江戸時代に入り福井藩主となった松平秀康によっても、御用紙職としての特権を認められた。同時に徳川家康からも江戸幕府の御用紙職として任命され、越前和紙の地盤が固められるともに、御用紙屋としての独占的地位を得た。(※今立町誌 p.450、ふくいの工芸 p.175~178)
 当時幕府に納めた御用紙は、奉書のほか墨流し・檀紙・鳥の子などであった。
 江戸時代、越前における和紙の産地は10地区を数えたが、現在においても盛んな地区は今立町五箇地区のみである。五箇地区の用紙は、かつて、藩札・幕府御用紙・太政官札などのほか、大正8年(1919)ベルサイユにおける第一次世界大戦講和会議の条約用紙などに用いられるなど、特選的用途をもった和紙の名門といっても過言ではないほど、輝かしい歴史を有している。現在では、洋紙には持ち合わせていない和紙独特の風合いを有していて、奉書や小判鳥の子紙、画仙紙など、特殊な用途の上質紙として用いられている。
原料の楮や三又などは、かつては茨城県・高知県・岡山県などから仕入れていた。副原料である「ネリ」に使用する「とろろあおい」は、付近の服間・味真野産や石川県産を用いていた。(※日本地誌10 p.382)
 五箇地区において和紙業が盛んになったのは、山麓の集落特有の耕地面積が寡少なことが一つの要因ではあるが、湧水群など水に恵まれていることが最大要因である。昭和49年(1974)、今立町に「和紙の里会館」が完成した。そして、越前和紙は同51年(1976)に通商産業大臣から伝統工芸品の指定を受けた。

表1.3.12 内水面漁業の魚種別漁獲数量(単位:t)(※福井県統計年鑑による)

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河川別/魚種別 さけ にじます いわな
やまめ
その他の
さけ・ます類
あゆ こい ふな うぐい その他
九頭竜川 5 3 6 10 253 8 7 4 3
その他河川 - - 1 1 27 2 1 1 3
5 3 7 11 280 10 8 5 6
年度別漁獲量推移をみると、昭和55年~平成2年頃の間は約600tonであったが、平成5年頃から減少し、平成7年には約300tとなっている。これは、アユの生育不良に起因している。そこで、アユ種苗の琵琶湖産依存から、福井県内水面総合センターでアユ種苗を生産供給し、県内産による資源量増加のための施策が、平成9年度より進められている。