日本は、山紫水明の地であり、豊葦原瑞穂国(生命が満ちた葦原のたくさんの実りをもたらすみずみずしい稲穂の国)であると古くから言い伝えられてきたように、水に恵まれた国である。その豊かな水を使って稲作りに励んできた日本人にとって、水はまさに天の恵みであり、自然の配剤であった。
稲作の普及は、農業水利開発とともに進んだが、河川の治水事業の進展によって荒れ地であった氾濫原を開発することで、水田の量的な増加をみた。すなわち、治水と利水の歯車が上手くかみ合いながら、水稲耕作を主体とした土地利用がなされてきた。
そのようななかで、干ばつはしばしば発生したが、用水の不足する村にのみ被害を受けるため、風水害のように広域にわたる被害となることは少なかった。
特に、水稲耕作は代かき期に始まり、田植えが終わり苗が発育する頃から、中干し期間を除いて穂ばらみが終え稲穂が成長するまでの間に、長く晴天が続き渇水となると稲が枯死してしまい、収穫が大幅に減収する。このような過度の日照り続きとなると、番水を実施して用水管理を厳しくし、被害を無くするよう最善の努力が払われてきた。それでも駄目なときには、雨乞いの神事を行って降雨を祈願した。
江戸時代になって城下町が建設され、城下が繁栄するに従い人口が増加し、井戸や湧水に依存していた飲料水が不足するようになった。そこで、土木技術の発達によって豊富な河川水を利用することに着目されるようになり、導水するための水路を開削して飲み水を確保するようになった。九頭竜川流域において河川水を飲料水として人工的に導水して利用したのは、芝原用水が御上水として使われたのが始まりである。河川水が農業用水以外に、都市用水として利用されるようになって、生活様式が変化し、多くの水を使用するようになった。
一方降水は、時間的に変動し、年間でも変動するほか、長期的にも変動する。近年は、年間降水量が減少傾向にあり、都市のヒートアイランドと相まって、夏期渇水や冬期渇水も頻発する傾向にある。日常生活や産業に欠かすことのできない水が不足すると、取水制限をせざるを得なくなり、水稲や農作物の被害のみならず、人々の生活はもちろんのこと、工場の操業停止など、社会経済活動にさまざまな影響を及ぼす。
九頭竜川流域は、年間降水量が多く、比較的水量に恵まれた流域であるが、過去に幾たびも渇水による被害が生じている。渇水は、洪水のように広範囲で大災害となることが稀れである。しかし、水資源は限りある資源であるということを再認識するためにも、過去の渇水状況を知り、渇水に強い社会を構築するための知恵を学ぶことが大切である。
表3.1.1に九頭竜川流域における主な渇水を示す。
稲作の普及は、農業水利開発とともに進んだが、河川の治水事業の進展によって荒れ地であった氾濫原を開発することで、水田の量的な増加をみた。すなわち、治水と利水の歯車が上手くかみ合いながら、水稲耕作を主体とした土地利用がなされてきた。
そのようななかで、干ばつはしばしば発生したが、用水の不足する村にのみ被害を受けるため、風水害のように広域にわたる被害となることは少なかった。
特に、水稲耕作は代かき期に始まり、田植えが終わり苗が発育する頃から、中干し期間を除いて穂ばらみが終え稲穂が成長するまでの間に、長く晴天が続き渇水となると稲が枯死してしまい、収穫が大幅に減収する。このような過度の日照り続きとなると、番水を実施して用水管理を厳しくし、被害を無くするよう最善の努力が払われてきた。それでも駄目なときには、雨乞いの神事を行って降雨を祈願した。
江戸時代になって城下町が建設され、城下が繁栄するに従い人口が増加し、井戸や湧水に依存していた飲料水が不足するようになった。そこで、土木技術の発達によって豊富な河川水を利用することに着目されるようになり、導水するための水路を開削して飲み水を確保するようになった。九頭竜川流域において河川水を飲料水として人工的に導水して利用したのは、芝原用水が御上水として使われたのが始まりである。河川水が農業用水以外に、都市用水として利用されるようになって、生活様式が変化し、多くの水を使用するようになった。
一方降水は、時間的に変動し、年間でも変動するほか、長期的にも変動する。近年は、年間降水量が減少傾向にあり、都市のヒートアイランドと相まって、夏期渇水や冬期渇水も頻発する傾向にある。日常生活や産業に欠かすことのできない水が不足すると、取水制限をせざるを得なくなり、水稲や農作物の被害のみならず、人々の生活はもちろんのこと、工場の操業停止など、社会経済活動にさまざまな影響を及ぼす。
九頭竜川流域は、年間降水量が多く、比較的水量に恵まれた流域であるが、過去に幾たびも渇水による被害が生じている。渇水は、洪水のように広範囲で大災害となることが稀れである。しかし、水資源は限りある資源であるということを再認識するためにも、過去の渇水状況を知り、渇水に強い社会を構築するための知恵を学ぶことが大切である。
表3.1.1に九頭竜川流域における主な渇水を示す。
表3.1.1(1) 近世の代表的な渇水
年代 | 記事 | ||
年号 | 年月日 | 西暦 | |
寛永 | 18.~19. | 1641 ~ 1642 |
この年から翌年にかけての冷害で、全国的な大飢饉となる。 寛永19年6月、幕府は倹約、百姓の未進、百姓への夫役の賦課、五穀の節約、煙草の作付け制限などの法度を出す。 |
延宝 | 8. | 1680 | 大干ばつにより凶作。 |
天和 | 元. | 1681 | 夏に大旱に加えて7月18日の大風で稲がことごとく折れ凶年となる。 |
正徳 | 5. | 1715 | 三国(今市、玉ノ江用水不足)旱害。 |
享保 | 3. | 1718 | 大干ばつ |
延享 | 4. | 1747 | 芦原干ばつ |
寛延 | 元. | 1748 | 干ばつ |
3. | 1750 | 干ばつ、雨乞 | |
宝暦 | 8. | 1758 | 雨乞 |
明和 | 7. | 1770 | 干ばつ |
8. | 1771 | 福井藩が幕府に干ばつの被害届を提出。預所の毛付高3万1,251石余のうち2万757石余が被害を受けた。 | |
寛政 | 2. | 1790 | 干ばつ |
4. | 1792 | 干ばつ | |
5. | 1793 | 干ばつ | |
6. | 1794 | 梅雨の頃から8月中旬まで干ばつ。福井藩で8万6,791石余の損耗。 | |
9. | 1797 | 干ばつ | |
10. | 1798 | 干ばつ | |
文化 | 2. | 1805 | 干ばつ |
9.7. | 1812 | 干ばつ | |
文政 | 元. | 1818 | 5月中旬から8月中旬まで、約70日間日照りで、福井藩の用水不足の村々では7万4,203石余の損耗。 |
4. | 1821 | 干ばつ | |
7. | 1824 | 干ばつ | |
天保 | 3. | 1832 | 干ばつ |
10. | 1839 | 干ばつ | |
14. | 1843 | 干ばつ | |
嘉永 | 元. | 1848 | 干ばつ |
6. | 1853 | 8月上旬まで日照りが続き、福井藩では9万9,633石余の損耗。 |
表3.1.1(2) 明治以降の足羽川での代表的な渇水
年代 | 記事 | ||
年号 | 年月日 | 西暦 | |
明治 | 6.6.16 | 1873 | 酒生用水より分水の出願。水一寸(3cm)。張り筵取除きを下げる。 7月1日にも分水出願あり郡役所より郡長が本田に出張する。同用水井番・戸長・区長が出席して、27ヵ村の区長集会。水一寸(3cm)の張り筵取除きを下げる。 |
9.8.1 | 1876 | 江守用水より出願に付き郡役所より青木出張する。徳光用水区長集会。 水一寸五分(4.5cm)、8月1日晩より4日まで3日間下げる。さらに6日晩より8日晩まで2日間及び22日晩より1日間水一寸踏下げ。 |
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13.8.7 | 1880 | 江守用水9ヵ村より分水出願。2日間半。三寸(9cm)踏下げ。19日より3日半の間二寸三分(7cm)踏下げ。 | |
14.8.26 | 1881 | 江守用水・酒生用水より分水出願。錠3本閉じ筵取除いたが水が流れ落ちず再願。28日に集会のうえで水三寸五分(10.6cm)1日間水門閉じて分水。31日にも江守・木田両用水より分水出願。水二寸五分(7.6cm)2日間踏下げ。 | |
19.7.~8. | 1886 | 7月17日より20日まで三寸(9cm)踏下げ。30日より8月3日まで三寸踏下げ。8月7日より12間で5日間三寸踏下げ。17日より22日まで五本錠切所番。夜は2人、昼は1人。 | |
20.8.17 | 1887 | 江守・木田両用水より分水出願。水三寸(9cm)3日間踏下げ。8月11日にも江守用水出願あり、水二寸(6cm)4日間踏下げ。 | |
26.7.29 | 1893 | 江守・木田両用水より分水出願。水二寸五分(7.6cm)2日間踏下げ。 半夏生より日照り8月17日まで無洪水。※2) |
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27.8.7 | 1894 | 江守・木田両用水より分水出願。水三寸(9cm)2日間踏下げ。 | |
42.7.14 | 1909 | 8月15日まで好天持続した。福井の8月降水量80.3mm。※2) | |
大正 | 11.8. | 1922 | 5分作。福井8月の降水量37.1mm。※2) |
13.6. | 1924 | 6~8月にかけて晴天続きで降水量少なく、幾分被害があった模様。※2) |
表3.1.1(2)は、「足羽町史」より作成した。
足羽川では渇水になると堰堤の木工沈床に筵を張って、下流に漏れないようにして、より多くの水を引いた。しかし、下流の各用水は益々水不足となり、用水管理者である郡長に徳光用水の切水を出願した。この切水は、第一水閘のほか、足羽川の中に基準点として大杭を打って水高の基準を示し、足羽川中70間(127.3m)の堰の手前を約6間(10.9m)幅、やや低くなっている所を切り下げて下流に流した。この切水する6間の所に徳光用水では筵を張って水を引き、下流の用水を引く所は郡長に出願して、この箇所を低くした。このことを「踏下げ」と称し、渇水の程度に応じて基準点から一寸(3cm)踏下げ、二寸(6cm)踏下げといった。このことは、足羽川堰堤が完成する昭和30年代まで続いた。
(※足羽町史 p.444~445)
※2) 福井の気象 福井地方気象台 昭和38年10月発行
足羽川では渇水になると堰堤の木工沈床に筵を張って、下流に漏れないようにして、より多くの水を引いた。しかし、下流の各用水は益々水不足となり、用水管理者である郡長に徳光用水の切水を出願した。この切水は、第一水閘のほか、足羽川の中に基準点として大杭を打って水高の基準を示し、足羽川中70間(127.3m)の堰の手前を約6間(10.9m)幅、やや低くなっている所を切り下げて下流に流した。この切水する6間の所に徳光用水では筵を張って水を引き、下流の用水を引く所は郡長に出願して、この箇所を低くした。このことを「踏下げ」と称し、渇水の程度に応じて基準点から一寸(3cm)踏下げ、二寸(6cm)踏下げといった。このことは、足羽川堰堤が完成する昭和30年代まで続いた。
(※足羽町史 p.444~445)
※2) 福井の気象 福井地方気象台 昭和38年10月発行
年代 | 記事 | ||||||||||||||||||||||||||||
年号 | 年月日 | 西暦 | |||||||||||||||||||||||||||
昭和 | 4. | 1929 | 6月~8月の降水量少なく、7分作。 | ||||||||||||||||||||||||||
14.6.~8. | 1939 | 時々雷雨はあったが空梅雨で、福井・敦賀ともに5~9月の降水量が明治30年に観測開始以来の少雨を記録した。福井の月間降水量(mm)は、下記のとおりである。
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26.7.18~8.28 | 1951 | 34日間ほとんど降雨が無く、明治42年の33日間無降雨以来の大干ばつとなった。8月下旬には、ますます照り続け、気温も36℃となり、日野川も全く流水を止め、各地では雨乞いの祈祷がはじまった。8月29日のにわか雨によって救われたが、植林では808千本が枯死し、造林事業はじまって以来の旱害となった。水田では、大野・勝山盆地をはじめ、嶺北各郡で甚大な減収となった。 | |||||||||||||||||||||||||||
48.7.3~8.19 | 1973 | 記録的な高温・少雨が8月中旬まで続いた。福井の無降水継続日数は、7月3日~22日の20日間と8月1日~19日の19日間である。 大野の同日数は、各月とも10日前後と少なかった。このため、県内では農作物の被害が続出し、被害面積は2,496haに達した。県内11市町村21地区で最高1日15時間の断水が生じる水不足の事態となった。 |
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53.7.~8. | 1978 | 干天酷暑の日が7月中旬頃から9月初め頃まで続いた。7月1日~8月31日までの総降水量は、福井で106.5mmであった。無降水日数は、7月13日~8月2日の21日間に及んだ。県全体の農作物被害は、水稲2,529ha、野菜484ha、果樹114ha、大豆27haに及んだ。 九頭竜川流域で給水制限を行った市町村は、武生市・鯖江市・南条町・永平寺町等である。 |
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平成 | 6.6.~8. | 1994 | 空梅雨で平年より早く7月13日に梅雨明けした。その後、8月中旬末に雨が降るまで連日30℃を超える暑い晴天が続いた。6~8月の日平均気温30℃以上と日最低気温25℃以上の日数は、過去の猛暑の年の2倍程度と多く、降水量は平年の20%ほどと極端に少なかった。 1mm以下の無降水継続日数は、福井で22日、敦賀で41日間であった。福井県全体での被害総額は14.9億円であった。 水稲1,924.9ha、野菜・果樹等50.4ha、鶏・ブロイラー5,201羽、養殖魚類72,820尾、林業種苗71万本の被害があった。 福井での記録は次のとおりである。
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参考資料
- 福井県史4近世二 平成8年3月 福井県
- 福井県の気象百年 平成9年1月 福井地方気象台・敦賀測候所
- 福井県土地改良史 平成3年3月 福井県土地改良事業団体連合会