本多富正が府中(現武生市)城主となったとき、古くからあった用水路を改修して町中に引き込んだ。これは町用水と称され、いつも一定量の水が流れ、町民の飲料水として用いられるとともに、防火用水や降雪時の融雪用水ともなっていた。そして、用水路の末端は、灌漑用として田を潤していた。また、町用水の一部は御館の中にも引水され、泉水に注がれ庭園に風情をかもしだしていた。 町用水については、次のような「川筋定法」(文化12年(1815) 藤井精治文書)があって、水の使用法が定められていた。
- 酒の道具を洗うこと
- 食物を入れた桶、鉢を洗うこと
- 紺屋の染物を洗うこと
- 大根の半切などを洗うこと(半切桶のことで、底の浅い桶で半桶ともいう)
- 種物を漬けること
以上の5項目については許されていたが、芥(ゴミ)のほか、悪臭のあるものを洗ったり、竹木を川上から流すことなどは一切禁止されていた。
本多富正の命によって町用水が整備されると、地下水利用が減少して地下水量が豊富になり、井戸の水が枯れなくなったという。
本多富正は、日野川の水を利用して中元部用水や亀用水・関用水などの水路を開き、灌漑用水に取り入れたので、南日野・王子保・大虫・吉野など39ヵ村に新田が開発され、生産が飛躍的に伸びた。
(※武生市史 概説篇 p.235~236)
本多富正の命によって町用水が整備されると、地下水利用が減少して地下水量が豊富になり、井戸の水が枯れなくなったという。
本多富正は、日野川の水を利用して中元部用水や亀用水・関用水などの水路を開き、灌漑用水に取り入れたので、南日野・王子保・大虫・吉野など39ヵ村に新田が開発され、生産が飛躍的に伸びた。
(※武生市史 概説篇 p.235~236)