(1)大用水
立合用水とも呼ばれる。現勝山市の大渡地先の九頭竜川から取水し、若猪野~上高島~北市~下毛屋~下高島~畔川を経て勝山町に至る用水である。用水路は、女神川の川床をトンネル(サイホン)でくぐり抜け、若猪野からは七里壁と呼ばれる段丘崖から河岸段丘面上に出て、淀川の水を取り入れ、1町6ヵ村が利用した。
大用水がいつ頃開削されたかは不明であるが、享保6年(1721)に井組が結ばれた記録が残っている。翌年には用水人足割を江上の6ヵ村が3分の1、江下の勝山町が3分の2とし、江米料も決定された。
勝山町では、灌漑用水のみならず住民の生活用水、防火用水にも利用され、本町や後町では道路の中央に用水路を通して融雪にも利用した。
江上の大渡・若猪野・上高島・下高島・北市の5ヵ村は美濃郡上藩領であり、江下の畔川と勝山とは勝山藩であったため、しばしば用水争論が生じ利害の対立があった。明治末頃には、122町歩(121ha)余の水田を灌漑しており、監督人として勝山町より1人、6ヵ村より1人、ほかに年行司として勝山町より1人が出て用水の維持管理にあたった。
(※角川日本地名大辞典 18 福井県 p.266~267)
大用水がいつ頃開削されたかは不明であるが、享保6年(1721)に井組が結ばれた記録が残っている。翌年には用水人足割を江上の6ヵ村が3分の1、江下の勝山町が3分の2とし、江米料も決定された。
勝山町では、灌漑用水のみならず住民の生活用水、防火用水にも利用され、本町や後町では道路の中央に用水路を通して融雪にも利用した。
江上の大渡・若猪野・上高島・下高島・北市の5ヵ村は美濃郡上藩領であり、江下の畔川と勝山とは勝山藩であったため、しばしば用水争論が生じ利害の対立があった。明治末頃には、122町歩(121ha)余の水田を灌漑しており、監督人として勝山町より1人、6ヵ村より1人、ほかに年行司として勝山町より1人が出て用水の維持管理にあたった。
(※角川日本地名大辞典 18 福井県 p.266~267)