九頭竜川の歴史・文化



治水の歴史
九頭竜川は、「崩(くず)れ川」とも呼ばれていたごとく、洪水のたびにあふれて平地一面を湖と化しました。また、流れのみちすじを変えたりして、川のすがたを変えてきました。
そのため古代から何度も治水工事が行われてきました。
人々は、堤防をつくったり、川床を掘ったり川岸に竹林をつくって水の勢いを弱めたり、九頭竜川を治めるためのさまざまな工夫をこらしてきました。


継体天皇の治水(4世紀末)
継体天皇を主神とする古社足羽神社
継体天皇を主神とする古社足羽神社
継体天皇が越前に住んでいたころ、現在の福井平野は、九頭竜川、日野川、足羽川が流れ込む大きな湖でした。
洪水のたびに水害にあっていたので、当時の朝廷は、湖の水を海へ流れ出させるため三国の河口を広くするよう命じました。そして、そこに大きな田園をつくり、川をふねが通れるようにしたり、水を田園に取り入れるための工事をしたと伝えられています。

江戸時代の治水(1601ごろ)
昔の面影が残っている堤防
昔の面影が残っている堤防
江戸時代までの九頭竜川の堤防は、古くからの川を治める技術であるかすみ堤や輪中堤が主流でした。今から約400年前、結城秀康が北ノ庄に来たときに、国家老の本多富正(元覚)に城下を水害から守るよう命じ、九頭竜川左岸の松岡から北野にかけて「元覚堤」と呼ばれる連続堤防をつくりました。また、本多富正は自分の城を水害から守るために、日野川流域の武生市南に「昼夜堤」をつくったと伝えられています。

外国人技師、エッセルとデ・レーケ(1878〜1882)
エッセルとデレーケ
エッセルとデ・レーケ
オランダから明治政府が招いたエッセルは、福井市内の九頭竜川や足羽川などに、川岸や堤防を守る護岸や、水の勢いを弱める水制を設計し、工事を指導しました。また、九頭竜川の河口に土砂がたまり、船が通れなくなったため、三国港に砂が入ることを防ぐ突堤をつくる計画をしました。その後、ヨハネス・デ・レーケが指導を引きつぎ、たびたび三国を訪れました。

春江堤防(1898〜1908)
春江堤防の築堤記念碑
春江堤防の築堤記念碑
九頭竜川右岸下流は、昔から洪水のたびに水害にあっていました。そのため、右岸下流にある村は、明治4年からたびたび堤防をつくるための工事を国や県にお願いしていました。明治30年10月に九頭竜川改修の応急手当工事をして、工事費の55%と用地を買うための費用を、関係する村が出すことにして、ようやく許可されました。翌31年に工事が始まり、41年に約4.8キロメートルの春江堤防が完成しました。

明治時代の九頭竜川の大改修(1900〜1924)
完成した東藤島堤防
完成した東藤島堤防
完成した東藤島堤防
治水謝恩碑
九頭竜川改修の声は、明治28年、29年と続いていた大洪水による被害にあったことで高まりました。明治33年から11年をかけて第一期改修工事が行なわれ、引き続いて明治43年からは日野川の改修が始まり、大正13年に完了しました。改修工事の実現のために、多くの人々が苦労し力をつくしましたが、中でも衆議院議長となった杉田定一の功績が大きく、西藤島に治水謝恩碑が建てられています。

福井地震と災害復旧工事(1948)
中角橋の落橋状況
中角橋の落橋状況
中角橋の落橋状況
震災復旧記念碑
1948年6月28日に、福井平野の中部から東部を震源域として地震がおこり、とても大きな被害をもたらしました。この地震によって、震度の基準が見直されるほどでした。九頭竜川の堤防も、大きな被害を受けました。修復作業のさなか、7月23日からのはげしい雨によって洪水がおこり、さらに大きな被害につながりました。そこで、国は堤防や護岸などの復旧工事を行い、1953年に完成しました。

足羽川の放水路工事(1951〜1963)
足羽川は、蛇行していたためよく氾濫していました。ようやく、明治33年の改修工事のときに、洪水時に使う放水路がつくられました。その後、昭和4年から3年間と、昭和26年から始まった改修工事で、川はばを拡げたりして、新しい足羽川がつくられ、昭和38年に旧足羽川はうめ立てられました。曲がりくねった河道は修正され、放水路が完成しました。
日野川合流付近の足羽川
日野川合流付近の足羽川

五領ヶ島地区の河道修正(1960〜1968)
五領ヶ島地区での九頭竜川の状況
五領ヶ島地区での九頭竜川の状況
九頭竜川は、鳴鹿付近で本流と裏川という2つの大きな流れに分かれていました。その中州には、堤防に囲まれた五領ヶ島の集落があり、洪水のたびに大変な被害にあっていました。昭和34年、35年と続いた洪水で、大きな被害を受けたことから、裏川をしめきることが決定されました。九頭竜川ダムの完成を待って昭和43年にようやくしめきられ、現在の姿となりました。