麻生津地区では、浅水川がほぼ中央を流れていたが、下流に位置しているため河床が低く、灌漑用水として取水できなかった。大正時代に入り動力による揚水が可能になると、杉谷や今市に揚水機を設置して浅水川の水を取水できるようになり、耕地整理による畑地の水田化も図られ、水稲耕作が広い範囲で行えるようになった。
杉谷地区では大正8年(1919)3月に、県の許可を得てガス発動機を据え付け、浅水川より揚水を始めた。その後、大正12年(1923)には10馬力の電動機を設置し、揚水小屋を建築して本格的な揚水による浅水川の灌漑用水の利用が図られるようになった。
今市地区では、大正電気株式会社が送電を始めて間もない大正9年(1920)に、有志が集まって揚水のための電動機購入の手付金100円を支払い、翌10年(1921)から高橋川の岡山地区に設置してあった蒸気エンジンによる揚水を廃止し、電動式に切り替えるべく県知事の許可を得る作業を始めた。そして、同年5月20日に県知事より今市用水組合代表宛に許可書が出された。
このときの設置に要した費用は、電動力機代として2,466円70銭、チェンブロック・瓦・石・木材・鉄管・土管・コンクリート・人足代など4,134円41銭7厘であった。費用の割り当ては「百歩に付き1円82銭」であった。ちなみに、当時の米価は、1石(2俵半:150kg)30円89銭であったという。
電動機に要する電力については、当時の大正電気株式会社との間で契約がなされたが、その主要なところを抜粋すると次のとおりである。
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