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水の確保が大変だった
電気はさておき、水に一番苦労した。寿司屋や豆腐屋などには井戸があったのでもらいに行き、何とか飲料水はまかなえた。トイレの水は近くのゴム工場跡地に井戸があったのでバケツをひもで吊してとり、ポリ箱に入れ、台車にて運んで使用した。また苅藻川の水をポンプで汲み上げ、これを利用した箇所もあり、また、地下に溜まった水が一定時間で放水されるのを利用したりして用を足した。そのうちに給水車が来るようになり、救援物資とボトルも入るようになり一段落したがトイレ、洗濯の水はやはり不足した。
【被災地の自治会長】
水が出なかったこと。水道が止まり、プールの水も消火活動に使い果たした。トイレの清掃が出来なかったのが苦しかった。雨水を貯め、使用したのを覚えている。冬なのでよかったが、夏場なら大変なことになったと思う。
【避難所となった学校の当時の校長等】
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重労働だった水運び
水道の断水は風呂もさることながら、トイレ(想像以上に水がいる)のために日に数回(20リットルのポリタンク2個)の水運びをした。安全のためエレベーターを数日止めたこともあり、4階以上や年輩入居者には大変だったと思う。それに比べれば煮炊きや飲み水は量的にも大きな問題ではなかった。
【被災地の自治会長】
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トイレ問題
集会所に避難したけれど、場所が狭いため大勢の人々を収容できずに困った。トイレが水洗のため、断水になり使用不能になり、屋外に穴を掘り排便をしてきた。
【被災地の自治会長】
一番困ったのがトイレであった。人数が多いこともあり、水洗トイレはいつも詰まった状態になるので教職員が汚物を手で取り除く作業をし、使用していた。この作業は簡易トイレが届くまで続いた。プールの水はヒビが入ったため、漏れてしまい使う事が出来なかったため、欠かせない作業であった。
【避難所となった学校の当時の校長等】