国土交通省 近畿地方整備局

和歌山河川国道事務所


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3.明治・大正時代

発生年月日 名称 気象概要 被害の概要
明治3年9月7日
(1870年)
暴風雨   紀の川大洪水
明治3年9月18日
(1870年)
    紀の川に大洪水が起り、川辺の東の大灘堤防が決潰した。被害は文化2年の洪水に譲らぬ破壊をうけ、農民の困窮は非常なものであった。その時海草郡山口村郷長平松吟次郎氏は身を投げうって東西に奔走し、官許を得て、旧堤より3倍高い堤を新設して被害を未然に防ぐために備えた。その時楠本・島の南方堤防数100間も同時に決潰して良田は一朝にして砂土ご帰した。これが復旧には数年を要した郷土誌に見える
明治4年5月18日
(1871年)
暴風雨 強風が俄に起る 屋根をまくり、垣根を倒し農作物の損害は甚だしく、人家の倒壊は7戸もあって、和歌浦附近に激浪が打寄せ、洲崎堤は破壊されて土砂は堆積し、海苔養殖地は殆ど埋没の惨伏を呈し、土砂を浚渫しなかったら斯業の途も杜絶する程の惨さであった。このため有志が集り投資者をつのり、その資金で応急の修理をした
明治12年10月27日
(1879年)
豪雨 豪雨、和歌山の降水量 142mm 紀の川が増水して、市中へ浸水したために、架橋・堤防等が多く崩壊した。又当時山東村辺は刈入期だったので、刈取った稲束を皆流失した
明治13年10月3日
(1880年)
暴風雨 和歌山に暴風雨が襲来した 人家・樹木・橋梁などが破壊され各村に多数の損害を与えた。又紀の川が増水して水位が5尺にも達し、下流の湊中洲の堤防が決潰したため一帯は水面と化した
明治14年7月3日
(1881年)
暴風雨 午前8時頃から南風が壮烈に吹き又雨が激しく降った 和田川筋が氾濫して附近の各村に浸水した
明治14年9月13日
(1881年)
暴風雨 東北方面から烈風が吹いて夜に至ってますます激しさが増し、雨も激しく降った 同10時に至って紀の川筋が氾濫し、処々の堤が決潰した。その時北島橋、田井ノ瀬の架橋が流失した
明治15年7月18日
(1882年)
暴風雨 次いで8月6日再度暴風が起る 紀の川が増水して北島橋が50間ほど決潰した。8月6日、紀の川の沿岸直川村の堤防が決潰し、流水が稲田に侵入して被害が甚だしかった
明治19年9月13日
(1886年)
暴風雨 9月13日から14日に亘り暴風雨が起る 14日になって紀の川が増水して市中へ浸水した
明治19年9月24日
(1886年)
暴風雨   各河川増水、紀の川水位一丈二尺、和歌山市内の被害壌家20、半壌31、納屋15、躍災戸数62
発生年月日 名称 気象概要 被害の概要
明治20年10月8日
(1887年)
台風 8日朝、台風が紀州沖合を東進のため全県下強風 3日間の降水量 妙寺で406.1mm
明治22年8月20日
(1889年)
低気圧 8月20日午前3時頃から西南風が強く吹き、711mbの低気圧に風速40mをともなって県下に襲来した。雨は9月7日まで降り続いた 旧西和佐の岩橋堤防、川永村楠本の西南堤防及び上流の新在家堤防が決潰した。その他紀の川支流は悉く氾濫し、紀の川両岸の諸町村全て浸水した。東は那賀地方、南は紀三井寺、北は葛城山麓に沿った諸村及び西は加太町に至るまで、殆ど高地を残したのみで他は水中に没した。家屋の浸水は6昼夜に及び、軒まで水中に没した処が多く、屋内は泥を堆積し、稲等の収穫は皆無に帰した。被害状況を詳記すると次の通りである。
全県下被害状況
浸水町村数   2ヶ町178村
流失家屋   3,675戸
浸水家屋   33,081戸
倒壊家屋   1,524戸
半倒壊家屋   2,344戸
死亡人   1,247
橋梁流失   931
船舶流失   247雙
死亡牛馬   227頭
耕宅地流失   7,000町歩
堤防決潰   1,072ヶ所
明治22年9月11日
(1889年)
暴風雨   紀の川増水、前水害の復旧が完成しない時のことだったので被害が多かった
明治25年6~7月
(1892年)
多雨 雨天日数30~40日、総雨量和歌山で625.2mm  
明治26年8月17日
(1893年)
暴風雨 全県下暴風雨 死者33名、流亡倒壌家屋2,400棟、その他の被害甚大であった
明治29年8月30日
(1896年)
台風 台風県中部に上陸し、東進する 暴風雨で各河川大洪水、高潮で被害続出、紀の川の北岸の村落浸水6昼夜半、耕地浸水10日間
明治29年9月3日
~11日(1896年)
霖雨 連日降雨 各河川の出水被害(前月末と合わせて)死者13名、行方不明7名、家屋全壌902戸、半壊1,024戸等、被害甚大
明治29年9月30日
(1896年)
暴風雨 午後から暴風が起る 紀の川が増水し、31日午前9時頃に至って、紀の川の北岸の海草郡有功村堤防及び鳴龍川堤2ヶ所が決潰した。有功村から加太に至る地域はことごとく浸水し、低地にある処は床上3.4尺まで水に浸り、最も激しかったのは、紀伊村中洲附近で軒先まで水中に浸った
大正元年9月23日
(1912年)
台風 9月21日から22日に亘って未曾有の暴風雨が襲来し、台風が946mb気圧をともなって、本県を通過した
死者 17名   傷害者 6名
家屋全潰 84戸   半潰家屋 168戸
船舶流失 194雙   船舶破損 243雙
発生年月日 名称 気象概要 被害の概要
大正6年9月30日
(1917年)
暴風雨 29日より降雨、30日に大雨になり夜には暴風雨となる 紀の川近年の最大洪水船戸水位 6.06米
大正7年7月12日
(1918年)
暴風雨 12日から13日にかけて暴風雨 人畜の死傷、家屋等の破壊、その他被害甚大であった
大正7年8月30日
(1918年)
暴風雨 30日朝紀伊半島に暴風雨が上陸する。和歌山県の風速20.8m/s 河川出水、家屋の倒壊、家屋田畑の浸水、橋梁の流失の被害あり
大正7年9月24日
(1918年)
台風 浜松付近より本州中部を北進、暴風雨となる 死者5人、家屋倒壊111棟、家屋浸水340戸、遭難船6隻
大正10年7月13日
(1921年)
台風 台風が四国・中国を縦断北上する 被害続出、死者3人、家屋破壊流亡138戸
大正10年9月25日
~26日(1921年)
台風 台風が紀伊半島南端に上陸し北進する。全県下暴風雨となる 死者12人、家屋の流亡全壊279戸
大正12年6月22日
(1923年)
暴風雨   各河川出水、紀の川増水15尺
大正13年7月16日
(1924年)
台風 台風が南方洋より本県西岸を掠め暴風が起る 紀伊水道漁船32隻遭難
大正13年10月21日
(1924年)
豪雨 和歌山地方に稀の豪雨 和歌山市内で一部床下浸水

和歌山市外浸水図(明治22年)
図


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