九頭竜川流域誌


2.2 渡場

(1) 概要
 すでに中世から三大河川をはじめとして、多くの河川では舟渡が利用されていた。また、九頭竜川や日野川、足羽川には舟をつないでつくる舟橋が数ヵ所みられたが、主として渡し舟が行き来し、住民や旅人の足となっていた。
(2) 渡場
 貞享2年(1685)、越前国絵図作成の際に編纂された「越前地理便覧」によると、図1.5.3のとおり多くの渡場がみられる。
 これらの渡場には、それぞれ渡守が控え、人々の往来に便宜を図った。福井城下と足羽川対岸の橋南地区の侍屋敷とを結ぶ毛屋渡のように、川の両岸を綱で渡し、その綱を頼りとする繰舟の渡もあった。また、大型の渡舟は耕作用の牛馬を乗せることも可能であり、馬舟とも呼ばれていた。
 渡守は、渡場によって人数が異なるが、通常2〜3人が交代で勤めた。安居の両渡、白鬼女渡などは、諸役免許の特権を生かして、荷物輸送にあたる川舟業者の一大拠点でもあった。
 明治初年頃の渡場は、九頭竜川21、真名川3、日野川12、足羽川4の合計40あり、川舟が配置されて渡しを行っていた。
図1.5.3 越前の舟渡場 (※図説福井県史 p.138)
白鬼女渡 (現武生市)
白鬼女渡(現武生市)
筥ノ渡跡 (勝山市)
筥ノ渡跡(勝山市)
鳴鹿の渡し場跡 (永平寺町) 小舟渡跡の石碑 (勝山市)
鳴鹿の渡し場跡(永平寺町) 小舟渡跡の石碑(勝山市)
(3) 渡舟と経営
 渡舟の大きさは、安永8年(1779)白鬼女渡で造られた渡舟で、長さ9尋4尺(約16m)、幅6尺4寸5分(約2m)、深さ1尺2寸5分(約40cm)であった。この製造費は、寛政元年(1789)では銀1貫385匁であった。
 渡舟の運賃は、白鬼女渡では武士やその奉公人に対しては渡賃を取らない定めとなっていたが、一般の旅人からは普通1、2文を、雪中や夜中、急用などの時には5文を徴収した。一方、村人に対しては、渡賃をその都度徴収するのではなく、その渡しを利用する隣郷の村々から、年額を定めて割賦銀や給米などが支払われる方法がとられていた。その範囲は、例えば上石田渡では68ヵ村、鐘鋳渡では木部18ヵ村というふうに、広範囲の村々が負担していた。
(4) 渡場の盛衰
 越前では、幕府領や藩領が入り交じっており、渡舟の経費負担割にも影響を及ぼした。坂井郡の鐘鋳渡では、貞享3年(1686)に幕府領となった辻村が渡守に給米の引き下げを申して出て争論となった。安居大渡では、代わりに渡賃を毎回徴収する方法がとられた。
 河川流路の変更や、他村田畑の耕作の増加に伴い、農業者が作舟と呼ばれる小舟を耕作に利用することもあった。また、広域化する商業圏、生活圏、生産圏のために新たな渡場が必要とされ、仮渡場の設置が許可されたり、一方では既存の渡場と対抗する形となり争論となる場合も出てきた。そうして、渡場は淘汰されていった。
 渡場の多くは、明治維新後の陸上交通網の整備、特に架橋により、順次その役割を終えることとなる。
(5) 代表的な渡場
 1) 毛屋の繰舟
 現在の幸橋付近には、「越前国名蹟考」にも記されている「毛屋の繰舟渡」があり、舟番所を設けて藩士や町医者など限られた人たちのみ利用させていた。これは、毛矢町が士族町であったことや城郭近くであったため、利用者を制限したものと思われる。
 「越前国名蹟考」には「毛屋の繰舟渡し、馬舟は家中の渡舟なり。大橋の川上に在り、慶長の頃の図には此所に橋かかれり。其後いつの頃よりか繰舟となれるを、貞享三年より此往来相止めしに、享保中より松岡家中毛屋へ引移に付、元文四年己未十二月十五日より再び繰舟を置いて往来を付けらる、中絶する事五十三年ばかり也、毛屋舟場より大名小路南の端へ渡る。」とある。
 繰舟番所は、川の南岸にあって明六ツ時(午前6時頃)より暮六ツ時(午後6時頃)まで出仕し、非常の場合には時々見回りを行った。増水9寸(約30cm)になれば人馬とも多数の乗船を禁じた。すなわち、高水のときには人数を5人に限定し、馬を1頭乗せるときには人を2人とし、渡守2人がかりで鉄輪より控縄を取って、慎重に繰ることとしていた。
 繰舟の形は、扁平で幅が広く盥のようで、馬を乗せても沈まないようになっていた。舳には九柱が建ててあり、鰯縄を立柱にもたせて船頭が手繰るようになっていた。
 文久2年(1862)9月には、毛屋の繰舟が廃止され橋梁が架けられた。そのとき、川幅を27間(約49m)に縮小したため、足羽川の疎通が著しく悪くなり、上流より苦情が甚だしく、元治元年(1864)に新たに木田地方の用水に放水路を設け、一部を分流してその不満を解消した。その後、昭和8年(1933)の陸軍大演習を機会に、幸橋はコンクリート橋に改築され電車も通行するようになった。(※稿本福井市史 p.786〜788)
 2) 安居の大渡、小渡
 大渡、小渡は柴田勝家が北ノ庄へ入封する以前から、南北交通に利用されていて、戦記などにしばしば出てくる所である。大渡は、足羽川が日野川に合流する川幅の広い所にあり、丹生郡蒲生街道への渡し場であったが、明治の大河川改修によって日光橋が架橋された後、無くなった。小渡は、菅野街道への渡し場であったが、大渡と同時期に小渡橋が架けられて無くなった。
 「越前国名蹟考」には、「安居の大渡は馬船、川幅三十九間、水一丈一尺、岸一丈、大渡村渡守居。安居の小渡は馬船、川幅三十四間、水八丈五寸、川の両岸渡守居。大渡小渡共に諸役免許の太閤御判物所持之。」と記されている。
 羽柴秀吉は天正11年(1583)に柴田勝家を攻略したとき、毛矢地点で渡河するにあたり渡船方を大渡・小渡の村人に命じた。両村には、その渡河を務めた褒美として、同年8月15日に両村地1,080坪歩(3,570m2)の諸役免除の御朱印を下し、免租の恩典を与えた。両村の村人達は、豊太閤を氏神として8月15日を村の祝日と定めて祭礼を行ったといわれている。(※新修福井市史 T p.167〜168)
 3) 白鬼女の渡し
 
現在の白鬼橋付近 (武生市)
現在の白鬼橋付近(武生市)
白鬼女の舟着場は、府中の表玄関であった。ここからの主な積み出し荷物は、米と木材である。大きな舟には米を140俵、小さな舟には40俵ほど積むことができた。1隻の舟には船頭が3人乗り、午後3時〜4時頃に出発して清水町の清水山で大きな舟に積み替えた。ここからは、水量が多くなるためである。そして、5キロメートル下流の清水町朝宮で1泊し、翌日三国へ下った。
 三国からの帰りには、多くの雑貨を積んで上ってきた。打刃物用の鉄や、今立町五箇の製紙の原料になる楮などは古くから運ばれていた。明治以降になると、肥料用として北海道からニシンが、山口県三田尻からは塩が、その他大豆・茶・さつまいもなどの荷物が運ばれてきた。
(※武生市史民俗編 p.202〜203)
 4) 筥の渡
 
現在の筥の渡付近 (勝山市)
現在の筥の渡付近(勝山市)
「越前地理指南」によれば、泰澄大師が白山禅定のとき筥の蓋に乗って九頭竜川を渡ったので、筥の渡と名付けられたといわれている。筥の渡は、下荒井橋上流約400mの辺りの九頭竜川左岸と右岸の大渡(勝山市)の河原までの渡しであった。
 現在、左岸には大きなケヤキの根が大岩を抱くような所に船着場跡がある。岩には、大日如来の線刻がかすかに残っている。


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