九頭竜川流域誌


7.3 用水

(1) 岩崎用水の不動明王(大野市)
 江戸時代に木本地区の水不足を解消するため岩崎用水が整備されたが、昭和に入ってこの用水を守る水神さんとして不動明王を建立した。
岩崎用水の不動明王
岩崎用水の不動明王
(2) 十郷用水(永平寺町)
 昔、ある村人が田んぼで仕事をしていると一匹の鹿が現れ、付いてこいという仕草をするので、何事だろうかと付いていった。しばらく付いていき、道に迷うといけないので、目印をつけていった。
 一晩中歩き続けて夜が明けるころ、山々の間から流れ出る大きな川の岸に出た。すると先を進んでいた鹿がうしろを振り向き、すっと消えていき、そのあとに山々にこだまする鹿の鳴き声が聞こえた。
 村人は、何がなんだか分からず、河原に腰を下ろしてしばらく考えていたが、はっと思うことが浮かんだ。それは、坂井平野には用水がなく、少し日照りが続くと作物が枯れて困っていたことである。村人は、鹿がこの大きな川の水を坂井平野に流せということを伝え、道に付けてきた目印を辿って用水路を掘れというお告げだと分かった。
 そこで、村に帰り多くの人に伝え、それが広がって大きな工事を行うこととなった。用水路が完成した後、社を建てて神様を祀り、お礼を言った。それからは、用水が平野にゆきわたり豊作となった。
 この用水が十郷用水であり、建てられたお宮が本荘の春日神社で、鹿が消えた所が鳴鹿である。
(3) 井堰の人柱(宮崎村)
 陶ノ谷の上野村に市兵衛という豪農が住み、隣の寺村にも多くの田地を所有していた。明暦元年(1655)頃に、上野村の上流に用水井堰を造ることとなり、多くの人たちが協議を重ねた。
 ところが市兵衛は、八田の蛇谷に大蛇が棲んでいるので水には不自由しないといって承諾しなかった。そのため上野村と寺村では、長く争いが続いたが、結局上野村の上流に井堰を造ることで決着がついた。
 その後、上野村で下の井堰を造るときは寺村が反対したため、上野村の人が人柱となって井堰とした。そのため、上野村で下の井堰を使うときには、晴天であっても必ず空がにわかに曇り、雨が降るといわれるようになった。


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