九頭竜川流域誌


2.2 荘園の発達と越前の川

 天平15年(743)、聖武天皇が東大寺大仏の造立を発願してから6年後の天平勝宝元年(749)閏5月に、東大寺の僧達が越前と越中に下向して来て、大仏造営のために必要な費用を捻出するために、荘園の占定にあたった。このとき、越前国府から離れた足羽郡や坂井郡が未開の地であったので、東大寺領の荘園を占定したものと伝えられている。東大寺側は、開発を進めるためにいくつかの大規模な用水路を開削し、道守荘や糞置荘に河川から引水した。荘園で収穫された品々は、水運を利用して九頭竜川河口の三国に運ばれ、海路を敦賀まで送り、陸路を近江の塩津・海津に至り、琵琶湖〜宇治川〜木津川の水運によって木津を経て平城の都へ届けられた。
 越前の川は、灌漑用水や舟運路として利用されていたので、それを維持するための小規模な工事が、各地で展開されていたものと想像される。このような形態は、荘園の拡大に併せて平安時代から鎌倉時代まで継続された。


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