九頭竜川流域誌


4.4.2 足羽川

(1) 上嶋重兵衛の用水路開墾と開田
  池田町月ヶ瀬村の田地は、水利が悪く畑地や荒地が多く、早くから用水計画が立案されたが実現しなかった。そこで、月ヶ瀬村で代々農業と酒造業を営む上嶋重兵衛は、村を貫流する河内川が谷深く、そこから取水することが困難であるため、志津原村の上流に水源を求め、他の村内を通水して月ヶ瀬村30町歩(29.8ha)の田地を潤す計画を立て、数年にわたって実地調査を繰り返して行った。用水路を造るためには莫大な費用と日数を要するため、上嶋家では数度にわたって家族会議が開かれ、賛成が得られなかったが、重兵衛は「この計画は上嶋家の私事ではない。月ヶ瀬村のために行うものである。身命を賭けて公益のために尽くすものであるので、どうか協力してほしい。」と妻に語り、その賛同を得て寛政5年(1793)に立案し、享和2年(1802)3月に着手した。
  当初工事は順調に進み、半分ほど仕上げたところで天狗壁に当たり、タガネで岩を削るだけでは工事が遅々として進まず、負傷者も続出するに至り中断して伊勢の両宮や金比羅神社、沿道の諸大社にも祈祷を受け、現場にも祭壇を設けて安全を祈願して工事を再開したところ、円滑に進んだという。しかし、志津原村との間で水路地係りで紛争が生じ、一時工事を中断することとなった。
  これは、用水路の取水口が月ヶ瀬村には無く、2里(7.85km)余り上流の志津原村地区の鯉谷から取水しなければならなかったため、延々と2里に及ぶ用水路敷地の江料米と、この用水から志津原村田地への分水問題がこじれての紛争であった。
  そのうえ資金不足が生じ、藩に願い出て資金を借用し、文化元年(1804)春に工事を再開し、同4年(1807)7月に完成した。この用水路の完成によって、月ヶ瀬村30余町歩(29.8ha)と志津原村の2町5反(2.5ha)を潤した。
  また、灌漑のほか、飲料や防火用にも利用された。天保6年(1835)、鯖江藩主は重兵衛の功績に対して、「他所出会之節帯刀差免」という待遇が与えられた。
(※池田町史 p.747〜750)


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