九頭竜川流域誌


1.2 明治後期〜昭和初期

 明治10年代、20年代には、淀川や利根川をはじめ九頭竜川などの大河川で洪水被害が頻発したため、抜本的な治水対策の必要性が叫ばれ、国会の場で審議が繰り返された。この頃は、わが国が法体系の整備を進めている時期であり、法律を整えて、その下で治水事業を進めることが強く求められた。
  そうして、明治29年(1896)に河川法が、翌30年(1897)には砂防法、森林法が制定され、近代治水を進める上での骨格が形成された。
  河川法では、河川を国の営造物として、その管理を国の機関としての地方行政庁が行うこととした。また、公共の利害に重大な関係があるものに限っては、河川、河川敷地および流水の利用について、私権を排除するものとした。
  また、砂防法では、砂防指定地を定めて荒廃した山地から流出する土砂対策を進め、災害を防止するものとした。
  九頭竜川流域では、明治33年(1900)から国直轄による九頭竜川改修(九頭竜川第一期改修工事)が始まり、明治43年(1910)からは日野川改修(九頭竜川第二期改修工事)が進められ、放水路や連続堤防の整備などによる高水対策が行われた。また、明治32年(1899)には大野郡佐開地係の鬼谷川が砂防指定地となり、国庫補助を得て砂防堰堤工事が行われた。一方、利水に関する規定では水利権制度が明確になったが、流水の占用等についての権限は、地方行政庁に委ねられていた。
 特に、明治32年(1899)に耕地整理法が公布され、翌年1月に施行された後、各地で耕地整理が進められるようになり、大正時代には着実に進展をみせるようになった。その結果、灌漑排水事業を中心とした土地改良事業の大きな展開をみることとなり、排水不良による農業生産の阻害が解消されていった。しかし、第二次大戦後の国土復興と経済発展に伴う水力発電が飛躍的に増大するに至り、農業用水と発電用水、そして都市用水などの水利権をめぐる摩擦が生じるようになった。



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