熊野川〜新宮

(国道168号-国道42号)

11. 新宮城跡しんぐうじょうあと

新宮城跡

写真提供:(公社) 和歌山県観光連盟

新宮城跡

戦国時代末期、豊臣秀吉の甥浅野幸長の一族、浅野左近大夫によって本格的に建設が始まり、その後江戸時代に新宮領主となった水野重仲により天守閣を中心とした城が完成しました。明治維新後、遺構はほとんど壊され、今は石垣が残るのみです。城の別名から丹鶴城公園(たんかくじょうこうえん)として整備され、高台からは新宮市内はもちろん、熊野川や熊野灘も見渡せます。(2006.3.31)

・道の駅「なち」より車で約25分

新宮城跡(新宮市観光協会)
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住民お薦め!
耳より情報

徐福上陸之地碑情報提供:市民の力わかやま

徐福上陸之地碑

阿須賀神社から熊野川に出て少し河口へ行ったところに灯台型をした「徐福上陸之地の碑」が建っています。秦の始皇帝の命を受け、不老不死の霊薬を探しに日本にきたのが徐福です。日本全国に徐福上陸の地がありますが、新宮は中国の歴史書のも紹介されていて信憑性が一番高いと思われています。この霊薬が「天台烏薬(てんだいうやく)」と言われています。(2011.7.14)

・道の駅「なち」より車で約25分

阿須賀神社情報提供:市民の力わかやま

阿須賀神社

写真提供:(公社) 和歌山県観光連盟

阿須賀神社
写真提供:(公社) 和歌山県観光連盟

新宮城からすぐ、熊野川の河ロを1.3kmほど遡った西岸の弧丘、蓬莱山の麓に阿須賀神社があります。阿須賀神社を頂点とした2等辺三角形のそれぞれの角に速玉大社と神倉神社が鎮座する位置関係にあります。
主祭神は事解男命(コトサカノオノミコト)で、蓬莱山をご神体とする自然信仰の施設であったと考えられています。しかし当社は中世の大火災のために古文書、旧紀をことごとく失いましたので詳しいことが分かっていませんが、多くの神宝を有していました。国宝指定のもの十五点は、すペて国立京都博物館に保管されています。また境内発堀物は境内の新宮市立民俗資料館に保管きれています。
この阿須賀神社は、速玉大社の祖神でもあり、平安時代には阿須賀王子として信仰を集め、熊野詣の人々が参詣に訪れました。境内には社殿や拝殿の他、徐福の宮や弥生時代の竪穴式住居跡、歴史民俗資料館などがあります。(2008.10.5)

・道の駅「なち」より車で約25分

阿須賀神社の手水鉢(ちょうずばち)情報提供:市民の力わかやま
阿須賀神社の手水鉢

阿須賀神社の手水鉢は、新宮市の指定「有形民俗文化財」です。新宮城の第2代城主・水野重良が、下野国那須(現在の栃木県那須郡)城主・大関高増の母の延命と繁栄を祈願して、寛永8年(1631年)に阿須賀神社に寄進したという手水鉢です。大関高増の母は水野重良の父・重仲の養女で、高増の父・政増の夫人である人物です。
この手水鉢は、巨大な黒雲母花崗斑の一枚岩を刻んだもので、正面には願意や年号・寄進者の名前などが彫られています。神倉神社にも同様の手水鉢が寄進されています。(2009.1.8)

新宮市立歴史民族資料館情報提供:市民の力わかやま

新宮市立歴史民族資料館

阿須賀神社境内、本殿に向かって左手に歴史民族資料館があります。弥生時代から古墳時代に移り変わる頃の土器類などの出土品や、熊野三山信仰が栄えた平安、鎌倉、室町時代の懸仏、江戸時代の城下町絵図、古文書、武具、産業資料など、新宮の歴史を伝える多くの文化財を常設展示しています。蓬莱山、熊野信仰。堀内氏、浅野氏、水野氏の新宮城(丹鶴城)に関する資料もあります。境内から竪穴式住居趾が出現したことから、竪穴式住居の復元・展示もあります。(2008.12.28)

歴史民俗資料館(新宮市観光協会)
営業時間 9:00〜17:00(12〜2月は16:00まで)
定休日 月曜・祝日の翌日、年末年始
料金 大人220円
小中学生110円
距離 道の駅「なち」より車で約25分

阿須賀王子跡情報提供:市民の力わかやま

阿須賀王子跡

阿須賀神社の境内、神社に向かって左側(歴史民族資料館の前近く)に阿須賀王子の解説板が建てられています。
阿須賀王子は現在の九十九王子には入っていませんが、王子社としては、「中右記」天仁二年(1109)十月二十七日条に白河上皇の参詣があったと言いわれているように、平安時代から多くの信仰を集めていました。承元四年(1210)、修明門院の参詣に随行した藤原頼資の日記によれば、奉幣ののち、神職の禰宜が御正体(鏡に物体を刻んだ懸仏)を懸け、経供養が行われ、神楽が奉納されたと書かれています。さらに応永三十四年(1417)にも、足利義満の側室・北野殿の参詣に先達をつとめた僧実意の日記に「あすかの社」と記されています。
江戸時代には、(飛鳥社)と書かれ、鳥居、門、拝殿等を備えた速玉大社の摂社となり、明治時代には速玉大社から独立して「阿須賀神社」となり、現在に至っています。(2008.12.11)

・道の駅「なち」より車で約25分

徐福の宮情報提供:市民の力わかやま

阿須賀神社の境内、稲荷社の右側にある石造りの祠「徐福の宮」は、阿須賀神社の篤志家らによってり建立されたものです。
徐福は、今から2200年ほど前、中国を統一した秦の始皇帝に仕えた人物で、始皇帝の命を受け、不老不死の霊薬を求めて仙人が住むという蓬莱山(ほうらいさん)を目指して長い航海にでました。そして徐福は、熊野川河口にある孤丘・蓬莱山の麓に上陸して住み着き、里人に農耕や漁法、捕鯨、造船、紙すきなどの技術を伝えたと言われています。
徐福渡来伝承地は熊野市波田須(はだす)とも言われ、ここにも徐福の宮と徐福の墓があります。(2008.12.1)

・道の駅「なち」より車で約25分

徐福の宮(遠景)

徐福の宮(遠景)

徐福の宮

徐福の宮

阿須賀神社境内復元竪穴住居情報提供:市民の力わかやま

阿須賀神社境内に、弥生時代から古墳時代へと移りかわる頃の多くの土器類が出土しました。さらに、住居跡も発見されました。この住居跡は、中央にある直径6メートルの住居跡(南円)が最も古く、その上にかかるように直径5.2メートルのもの(北円)ができ、さらに南東部に1辺が4メートルの方形ができたと考えられます。このように年代の違う住居跡が1ヶ所から重なるように出土するのは珍しいそうです。この竪穴式住居は、昭和51年に復元されました。(2008.11.19)

・道の駅「なち」より車で約25分

復元竪穴住居

復元竪穴住居

復元竪穴住居説明板

復元竪穴住居説明板

天台烏薬(てんだいうやく)情報提供:市民の力わかやま

天台烏薬

秦の始皇帝の命を受け、不老不死の霊薬を世界中を探し求めて旅をした徐福が発見したと伝えられているのが「天台烏薬(てんだいうやく)」という常緑樹クスノキ科の低木です。原産地が中国の揚子江以南の中国浙江省にある「天台山」から「天台」、実がカラスのように黒くなることから「烏薬」⇒「天台烏薬」と名付けられたと言われています。
新宮市では、楕円形の葉を用いて清涼飲料水(徐福之精)、菓子(熊野の宝道)、入浴剤などとしてお土産物屋さんなどで販売しています。薬用部の根は現在のところ使用されていないようです。
なお、天台烏薬の木の下のお墓は徐福のお墓です。(2008.10.9)

・道の駅「なち」より車で約25分

天台烏薬茶

天台烏薬茶

天台烏薬の葉と実

天台烏薬の葉と実

天台烏薬の由来説明板

天台烏薬の由来説明板

与謝野寛(鉄幹)の碑情報提供:市民の力わかやま

与謝野寛(鉄幹)の碑

新宮市内から熊野灘(太平洋)を一望できる新宮城跡に与謝野寛(後の鉄幹)の碑が建っています。
明治39年、北原白秋、吉井勇、茅野蕭々らと共に熊野を訪れた与謝野寛は、新宮城趾から遥かな熊野灘を望んで和歌(うた)を詠みました。碑にはこの和歌(うた)が刻まれています。

「高く立ち 秋の熊野の海を見て 誰ぞ涙すや城のゆふべに」

その後、42年に大石誠之助の招きで再びこの地を訪れた与謝野寛は、新宮の若き望郷の詩人・佐藤春夫に強い影響を与えました。(2008.9.28)

・道の駅「なち」より車で約25分

夢熊野(長編歴史小説)情報提供:グランドデザイン那智勝浦

夢熊野

「夢熊野」は、故中上健次氏夫人:紀和鏡作、熊野を舞台に丹鶴姫(田鶴姫)を主人公にした一大歴史伝奇ロマン小説です。集英社出版。
平家と源氏の栄枯盛衰を、熊野の眼で保元・平治の乱から鎌倉幕府の成立の時代まで描いています。熊野別当の妻であり、頼朝・義経の叔母でもあった美しい丹鶴姫の大らかで自由奔放な行動と謎に満ちた生涯を、神秘的な熊野の地・新宮城(丹鶴城)を舞台に描いたものです。霊力を持つ熊野比丘尼の長でもあった丹鶴姫が頼朝と共に保元の乱に参戦したり、鎮西八郎為朝が丹鶴姫を助けたり、また謎の忍び集団「八咫烏(やたがらす)」は、熊野の闇の奥深さを浮かび上がらせます。丹鶴姫が弁慶の実母との設定などドラマチックな構成で、一気に読み進ませる壮大な歴史物語に仕上がっています。熊野を知るための絶好の一冊です。是非一読を。
舞台は「日本風景街道 熊野」のエリアと重なり、NHK大河ドラマにぴったりの波乱万丈の作品です。採用されれば、最大の「熊野」のPRになるでしょう。

なお、中上健次・紀和鏡氏夫妻の長女で作家の中上紀(なかがみのり)氏は、今秋2006年の和歌山県文化奨励賞を受賞されました。(2006.12.11)

・道の駅「なち」より車で約25分

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