一人ひとりの心の中に豊かな琵琶湖を

11月10日・11日に『第27回 全国豊かな海づくり大会 びわ湖大会』が、滋賀県大津市を中心に開催されます。
全国豊かな海づくり大会は、魚や貝などの水産資源と、それらの生物が住む海や湖の環境保全に対する国民の意識を高めるために昭和56年から、海のある都道府県で催されています。 今回のびわ湖大会は、初めての湖での開催となります。
今号のビワズ通信では、多くの魚が棲み、漁業法上では海として位置づけられるほどの豊かさを誇る琵琶湖について考えます。

戦国の昔から続く、豊かな漁場、沖島

琵琶湖に浮かぶ最も大きな島、近江八幡市の沖島は、古くから漁業が盛んで、いまも滋賀県漁連のなかでも屈指の水揚げ量を誇っています。

その漁業の歴史をたどると、戦国時代に織田信長の支配下にあって、戦に功労のあった島民に対し、沖島を中心とする広い水域が専用漁場として与えられます。この漁場は、明治8年には滋賀県知事によって「永代借区」に認められ、漁業の発展に大きく寄与するとともに、今日も受け継がれ、島の生活を支えています。さらに、豊臣秀吉も沖島を湖上交通の要衝として重視し、近江八幡城主の秀次に本格的な港をつくることを命じ、これが沖島漁港のはじまりとなりました。

「永代借区」‥長年にわたって貸し与えることを 公に認められた区

漁業の厳しさを物語る半農半漁の島

室町や鎌倉時代になると琵琶湖のコイやフナが、都で珍重されました。

とくに、室町時代の料理書によると、コイは美物第一と著され、タイに勝るご馳走であったことが分かります。その理由は、琵琶湖などから都に運ばれたコイは鮮度が高く、包丁で切り、見せる日本独自の料理法にふさわしい見栄えのよい魚とされたからです。また、フナも好まれ、この頃からフナズシが登場します。このようにコイやフナが市場に出回ると専業漁師があらわれ、勢力を持つ漁師の中には、京都の町中に店を出す者もでました。

しかし、その一方で沖島の漁は、長い間、自給自足のための手段でした。わずかな平地に暮らす島の人たちは山林を切り開き、石垣を積み重ねて棚田をつくり、半農半漁の生活を続けました。ようやく明治時代に入り、鮮魚販売のルートが確立されると沖島漁業組合が誕生し、本格的な漁業の島として歩みはじめます。ところが、明治の初めは不漁続きで、島の暮らしは苦しく辛いものでした。そこで、漁業の不振の際の対策として、島のもうひとつの産業であった石材業で得た資金によって島外に農地を購入。米作農業によって住民の主食の半年分をまかなったという歴史もあります。

琵琶湖の豊かさを映す、数々の多彩な漁法

沖島の漁の方法は、古くは「地びき網」が中心でした。島内はもとより、遠く彦根から近江八幡にわたる湖岸にいくつもの網ひき場を持ち、琵琶湖に棲む多くの種類の魚が地びき網でとれました。昭和30年代までは、梅雨の頃になると卵を持ったニゴロブナもたくさん地びき網でとれたといいます。沖島には、この他にも「沖びき(底びき)」「さし網」「沖すくい」「たつべ」「えり」など、多彩な漁法が伝えられています。季節や魚の種類に合わせて、これだけ多くの漁法を続けているのは県内でも唯一、沖島だけです。

なかでも、代表的な漁の方法が沖びき網です。小型機船底びき網や船びき網のことをいい、北湖一円にまで出漁し、ワカサギ、イサザ、モロコ、ニゴロブナ、ゴリ、エビなどを漁獲。潮の流れによってはビワマスも沖びき網でとれることがあります。さらに、放流用のアユ苗として出荷されるコアユをとるには、船びき網は不向きとされていましたが、80年代には、人工飼育に適したサイズの小さなコアユをとらえる船びき漁の方法が沖島で考案され、島民の大きな収入源となりました。

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琵琶湖の漁船漁業の一大拠点である今日の沖島漁港

どうして琵琶湖は豊かな湖なのか

沖島だけでなく、琵琶湖全域にのこる多くの漁法やそれに使われる数々の漁具は、太古から多様な生命をはぐくみ続けた琵琶湖の豊かさを証明するものです。それでは、琵琶湖がこれほど多様な生き物を生み、多くの固有種を誕生させた秘密について考えてみましょう。

まず、琵琶湖の豊かさの理由のひとつは、湖全体の容積の大きさです。琵琶湖は日本一大きな湖ですが、単に湖面の面積が広いだけでなく、最大水深は103・58メートルあり、横にも縦にも大きく、約275億立方メートルという膨大な水量をたたえています。これは、天ヶ瀬ダムの約1000個分に相当します。容積が大きければ、湖辺から伸びる浅瀬や広大な沖合い、年間を通じて水温の変わらない深層部など、多様な環境が生まれます。また、湖の周囲は約235キロメートルあり、湖岸の形態も、ヨシ帯などの抽水植物湖岸や岩礁湖岸、岩石湖岸、小さな石からなる礫湖岸、そして砂浜とさまざまな顔をもっています。変化に富んだ湖岸は、それぞれの環境に適した生き物の生息場所となり、多くの生命がはぐくまれます。

そして、2つ目の理由は、琵琶湖が、世界でも数少ない古代湖の中でも、とりわけ長い歴史をもつ湖であることです。古代湖とは、およそ10万年以上の歴史を有している湖を指しますが、現在の琵琶湖のもととなった湖ができたのは約400万年前、いまのような琵琶湖が誕生したのは約40万年前といわれています。多くの湖が、1〜2万年で消滅することから考えると、琵琶湖はまさに古代から存在しつづける、きわめて貴重な湖といえます。古代湖で、閉ざされた環境が長い歳月にわたって持続すると、そこには独自の生き物があらわれます。とくに、環境が多様であれば、その環境に適合したさまざまな役割を持つ多種多様な生き物が生まれるのです。

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琵琶湖の大きさと青色の濃淡で水深を表した地図。
湖岸から浅瀬が広がりやがて深層部へといたる。
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もともと豊かだった西日本の地

容積の大きさ、歴史の古さに加え、豊かさのもうひとつの理由として、琵琶湖が西日本に誕生したことが挙げられます。琵琶湖には、約1000種もの動植物が生息し、ここにしかいない固有種と呼ばれる生き物は、現在、報告されているだけでも61種類に及びます。また、魚の固有種については、その多くが、古くから人と関わりの深いコイ科魚類です。

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雨によって水位が上がると魚たちの産卵場となる抽水植物湖岸

日本列島のもとができた1500〜2000万年の歳月をかけて分化したのが、今日の固有種だと考えられています。したがって、もともと魚影の濃い西日本の地にできたからこそ、琵琶湖はより豊かな湖となったのです。

人のつくった環境を巧みに利用した魚たち

弥生時代、あるいは、縄文時代から始まっていたかもしれない琵琶湖周辺の稲作は、魚たちの生活に大きな影響をもたらしました。コイ科魚類は、5魚をモンドリやタツベといった漁具を仕掛けて捕らえ、農作業の行き帰りに田船で回収しました。これを オカズトリと呼び、日常的に農作業の合間に行われるオカズトリは、最も琵琶湖らしい漁でした。

「オカズトリ」‥湖に近い河川や水路、水田などで、食事のおかずにすることを目的に行われた魚とり。自給自足のために必要な分だけを捕らえていました。

豊かな琵琶湖は、魚への関心から

コイ科魚類を中心に考えると、環境とは自然だけでなく、私たち人間もその一部に含まれることがわかります。長年にわたって人間は、魚をとって食べ、生活の糧としてきました。

しかし、その一方で田んぼや水路をつくり、新たな産卵の場を提供する存在でもありました。このように人と魚は、利用されながら利用するという密接な関係を太古から連綿と続けてきたのです。ところが、わずか数十年の間に、その関係が大きく変化しました。オカズトリも、琵琶湖と田んぼをつなぐ水路も減り、長く続いた人と魚の濃密な関係が、急速に崩れはじめました。魚への関心が薄れると、魚が行き来する水路もただの水の通り道にしか見えず、田んぼも米を生産するだけの場所としか映らなくなってしまいました。

いま琵琶湖の周りでは、もう一度、魚の存在に目を向け、自然との深いきずなを取り戻そうとする活動が始まっています。ビワズ通信でもご紹介してきた『自然観察会』は、国と地方自治体、さらに地域の人々が手を取り合って、子どもたちに魚と触れ合う機会を与えようという取り組みです。また、昔のように田んぼと琵琶湖をつなごうとする活動や、魚を田んぼに呼び戻し、フナやドジョウが泳ぐ水田で米をつくる「ゆりかご水田米」の取り組みが地域のたくさんの人たちの協力で進められています。

この秋に開催される『全国豊かな海づくり大会びわ湖大会』もまた、より多くの人々が魚や自然への関心を取り戻すきっかけとなれば、その意義はさらに大きなものとなることでしょう。まずは、私たち一人ひとりが、かけがえのない琵琶湖への想いを強くすることが、豊かさを守る最初の大きな一歩となるはずです。

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水辺や魚とのふれあいの場を提供しようと、
地域や各種団体の協力によって開催されている自然観察会


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