九頭竜川流域誌


1.6.2 白山信仰

 平安時代には、山中での修行を重視する密教や古来の山岳信仰と深く融合した修験道が盛んになった。白山信仰の祖といわれる泰澄を筆頭にして、多数の山中修行僧が修行に励んだのである。
 白山信仰の一修行拠点である平泉寺が、平安時代後期以降に延暦寺とつながり興隆してくると、宗教的権威を高めようと泰澄との縁を強く喧伝する寺が次々と出てきた。こうして白山信仰にまつわる如来や観音の造仏が盛んとなっていった。

(※図説福井県史 p.48)
 白山は、越前・加賀・美濃の国境にそびえる標高2,702mの名山である。これらの3国は白山を水源とする九頭竜川、手取川、長良川の流域にできた国々であり、白山連峰に降った雪や雨が、自然の恩恵となったり、時には脅威となったりしつつも、白山とは自然のみならず歴史・文化面でも地域と長い関わりがあり、白山が象徴的存在となっている。
 その名のとおり季節を通じて雪をいただく白山は、神々が宿る山として信仰対象となり、平安時代の「白山之記」によると天長9年(832)に、「三馬場」という登拝拠点が開かれたと伝えられている。この馬場とは、白山登拝のときに馬でそこまで行き馬を繋ぐ場所であり、あわせて修業道場も置かれていたところである。越前馬場の中心は、白山中宮で平泉寺(勝山市)、加賀馬場の中心は白山本宮で式内白山比盗_社(石川県鶴来郡)、美濃馬場の中心は白山中宮で長滝寺(岐阜県白鳥町)であった。これらの三馬場はもともと別個に発生し、独自に発達してきたものであったが、そのいずれもが「越の大徳」泰澄によってはじめられたという共通の伝承をもっている。
 泰澄は白鳳11年(683)6月11日、越前国足羽郡麻生津に生まれた。14歳のときに霊夢をみて丹生郡の越知山へ登り修行した。その名がいつしか朝廷にまで届き、大宝2年(702)に勅使伴安麻呂が下向して、泰澄をもって鎮護国家之法師とした。養老元年(717)36歳のとき白山に登ろうとして大野の隈、筥川の東、伊野原に至り祈念した。神亀2年(725)には行基が白山に参詣して泰澄と会見している。天平9年(737)に痘瘡が全国に流行したとき、泰澄は勅命によって十一面経を修し、悪疫を終息させたといわれている。このことにより天皇より大和尚位を授けられ、名を泰證と賜ったが、父を慕って泰澄と改めることを請い許された。天平宝字2年(758)に再び越知山に入り、神護景雲3年(769)に86歳で、その地に入寂したと伝えられている。
 泰澄の開基と伝えられる寺院は、越前では平泉寺、豊原寺(丸岡町)、千手寺(三国町)、糸崎寺(福井市)、大滝寺(今立町)、大谷寺(朝日町)、長泉寺(鯖江市)、など多くある。また、山川道路開削の功績も少なくないと伝えられている。
(※福井県の歴史 山川出版 p.44〜45)
泰澄大師像 大谷寺(朝日町)
泰澄大師像 大谷寺(朝日町)


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