九頭竜川流域誌


4.2 大正時代
4.2.1 地場産業

 大正3年(1914)に第一次世界大戦が勃発し、景気がインフレに向かい、大正7年(1918)8月には米価が暴騰したことによって起きた米騒動が、富山県下に始まり、瞬く間に福井県下を通過して関西各地に波及していった。米騒動は43道府県で起こり、延べ約10万人の軍隊が出動するという事態となった。そして、寺内内閣に代わって原敬の政友会内閣が成立した。
 このように混沌とする政治・経済情勢の下で、福井県の工業のうち絹織物機業は全国に覇をとなえていたが、大正3年から同8年(1919)にかけては大戦景気で好況が続き、力織機と手織機とを擁する零細機業場から力織機主体の大工場へと推移していった。それが大正8年3月になると、生糸羽二重の相場が連日崩落を続け、4月には機業の夜業中止、同盟休業、賃金引き下げなどを実施せざるをえなくなり、4月中旬の織物生産高は3月の3分の1に激減するほどとなった。
 福井県の産業中枢を担ってきた絹織物機業の長期にわたる不振は、産業界のみならず福井市の上水道事業や赤十字病院建設事業にも影響を及ぼし、中断を余儀なくされる事態を引き起こすこととなった。
 一方、大戦中にドイツやイギリスなどから輸入が途絶えた各種機械、薬品、染料、化学肥料などの国産化の動きが活発となり、機械工業や化学工業などの新興産業が台頭する礎が確立されていった。福井市や丸岡町には力織機製作等を行う鉄工場が操業し、昭和初期の人絹機業の盛業の足がかりを築いた。また、武生町に創設された北陸電化株式会社は、大野郡五箇村西勝原(大野市)に発電所を建設して各地へ供給する一方、余剰電力を武生工場へ送電し、付近で産出する石灰岩を原料として炭素材と熔解させてカーバイトを製造し、さらに石灰窒素と硫安を精製するようになった。
 また、明治38年(1905)、足羽郡麻生津村生野(現福井市)の一農家で呱々の声をあげた眼鏡製造業は、大正8年には工場数24、従業者数120人、年生産8,400ダースに及び、地場産業として着実に成長を遂げた。さらに、眼鏡メッキの技術を有するようになり、レンズ研磨技術も向上して、昭和のセルロイド枠眼鏡へとつながっていった。

(※福井県史 通史編5 近現代一 p.720〜727)


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