九頭竜川流域誌


4.6 江戸時代末期までの治水

(1) 概要
 江戸時代には、越前三大河川のいたるところで築堤工事が行われたが、いずれも堤防が連続しない霞堤であった。詳しくは、明治10年(1877)頃に描かれた越前三大川沿革図に記されている。これをまとめたものが、表2.2.1である。
 また、当時の治水工事を市町村史などによって、かいま見ると次のとおりである。
 1) 福井藩関係(※春江町史 p.383〜385)
(a) 九頭竜川左岸
・天菅生・江上大堤・布施田大堤、三十二箇村立会大堤は上浄土寺錠橋より下山岸水門まで延長5,800間(10,544.4m)。
(三国〜福井市江上)
(b) 九頭竜川右岸
・宇随堤・漆原・羽崎堤は安永7年(1778)と寛政8年(1796)の築立
・漆原七ヶ所堤は、寛政7年(1795)に延長332間(603.6m)、翌8年に263間(478.1m)の築立。
・木部新保大堤は延長1,000間(1,818m)。
(c) 九頭竜川下流の一部竹田川への分派
  天明年間(1781〜1788)、福井藩では泥原新保内灌頂寺に、長さが100余間の枠出(幅5間の水刎工)を築造したので、対岸の川崎に水勢が激しく突きあたり、地境の二番杭から五番杭までが押し流された。そこで、灌頂寺に枠出を新設して三国湊の水深の維持を図った。
 明治元年(1868)の水害で竹田川沿岸82ヵ村に被害が生じたため、足羽県では8月に灌頂寺枠出を撤廃し、翌年には道実島と川崎村寄州との間に締切り新堤を築造した。ところが、灌頂寺の枠出を撤廃したことによって三国港に土砂が堆積し、水深の減少によって通船に支障を来たし、特に御蔵前付近には徐々に州がつき始めた。(※三国町史 p.680)
 2) その他の藩 九頭竜川上流勝山藩(※勝山市史 p.610)
・保田村の石堤は、享保2年(1717)5月に、長さ140間(254.5m)にわたる石堤で普請した。
(2) 越前三大川沿革図にみる堤防
 江戸時代末までに築かれた堤防は、明治の初めに作成されたといわれているグラビアページにも載せている「越前三大川沿革図」に詳しく記されている。その内の主要な堤防を表2.2.1に示す。

 表2.2.1(1)九頭竜川流域主要堤防一覧
河川名 堤防名 位置 構造
九頭竜川本川
左岸
七板境大堤 大野市七板 根7間、幅4間、高2間。下手ニテ根幅2間半上6尺、高6尺。
明和年間(1764〜1771)ニ築立。
藤巻堤 上志比村市荒川  
上四十歩堤 上志比村中島 根幅4間、上幅3間、高2間。
宝暦年間(1751〜1763)
下流ニ50間新堤延長。
清水五箇立合
大堤
上志比村大野 長300間。
牧福島堤 上志比村牧福島 根幅4間、上幅1間、高2間。
寛政8年(1796)築立。
飯島四箇立合
締切堤
永平寺町轟 寛政11年(1799) 堤初メテ出来。
根2間、上9尺、高9尺、長100間。
北島開田堤 永平寺町轟 寛政9年(1797)築立。
飯島大普請堤 永平寺町飯島 長147間、幅3間、上9尺。
上外島大堤 永平寺町光明寺 根4間余、上2間、高2間。
下外島大堤 永平寺町光明寺 根幅2間、上幅9尺、高7尺、
延長300間余。
青島古堤 永平寺町谷口 長100間。
東古市堤 永平寺町東古市  
亀島堤 松岡町志比堺 長36間、根2間半、上2間、高6尺。
松岡大堤 松岡町合月  
神明堤 松岡町神明 此堤、此丘尼塚ヨリ北野村締切迄。
長400間余、根幅4間、上2間、高2間。
北ノ上村境堤 福井市北野上 根4間、上幅2間、高9尺。
宝暦7年(1757)築立。
高島大堤 福井市北野下 根幅5間、上幅2間半、高2間4尺。
横堤 福井市下新田 根幅3間、上幅2間、高7尺。

 表2.2.1(2)九頭竜川流域主要堤防一覧
河川名 堤防名 位置 構造
九頭竜川本川
左岸
八畝割堤 福井市寺前  
舟橋大堤 福井市舟橋  
天菅生・
江上大堤
福井市江上 延長1,200間。慶長6年(1601) 築立。
布施田大堤 福井市布施田  
三十二箇村
立合大堤
三国町山岸〜
福井市布施田
上浄土町錠橋ヨリ下、山岸水門マデ、
延長5,800間。
根幅8間、馬踏2間、高3間余。
慶長6年(1601)以前築立。
九頭竜川本川
右岸
妙金島堤 勝山市妙金島  
森川堤 勝山市森川  
東野堤 勝山市東野  
栃原堤 永平寺町栃原 根5間、上幅4間、高9尺、長70間。
寛政8年(1796) 築立。
二ツ屋大堤 丸岡町二ツ屋 堤長380間、根幅6間、上幅2間1尺、
高2間。
木島堤 松岡町上合月  
大塚大堤 松岡町上合月 長400間、根幅8間、上幅3間、
高3間余。
金田堤 松岡町兼定島  
岡堤 松岡町末政  
村前堤 松岡町渡新田 根幅3間、上幅2間、高2間。
宇随堤 福井市宇随  
漆原・羽崎堤 福井市羽崎 長148間、根幅4間、上幅2間、高3間。
安永7年(1778)築立。
漆原七ケ堤 福井市漆原 長332間、根幅4間、上幅2間、高2間。
寛政7年(1795)築立。
長 263間、根幅4間、上幅2間、高9尺。
寛政8年(1796)築立。
中角大堤 福井市中角  
六日市勝見大堤 福井市六日市  
木部新保大堤 坂井町
木部新保
長1,000間、根幅5間、高2間。

表2.2.1(3)九頭竜川流域主要堤防一覧
河川名 堤防名 位置 構造
日野川左岸 合波堤 今庄町合波  
東大道堤 南条町東大道 根3間、上幅9尺、高2間。
大口堤 南条町一本杉 長280間、根4間、上幅2間、高2間。
西石留外堤 武生市国兼  
西石正堤 武生市国兼  
四郎丸堤 武生市四郎丸  
松森堤 武生市松森  
家久堤 武生市家久  
下司堤 鯖江市下司  
平井村大堤 鯖江市平井  
上石田大堤 鯖江市上石田  
片山堤 清水町片山  
片粕堤 清水町片粕  
日野川右岸 鋳物師堤 南条町鋳物師  
上平吹堤 南条町上平吹 堤長200間、根4間、上幅2間、高2間。
東坪田堤 武生市中平吹  
向新保大堤 武生市向新保  
村国堤 武生市村国  
瓜生堤 武生市瓜生  
上鯖江堤 鯖江市上鯖江 堤長700間。
有定堤 鯖江市有定  
水落堤 鯖江市小黒  
北野村川縁堤 鯖江市北野 堤長460間。
糺地係堤 鯖江市糺 堤長400間。
三尾野堤 福井市三尾野  
南居村大堤 福井市南居  
下江守堤 福井市下江守  

表2.2.1(4)九頭竜川流域主要堤防一覧
河川名 堤防名 位置 構造
足羽川左岸 蔵作締切大堤 美山町蔵作 根5間、上2間半、高2間。
小宇坂堤 美山町小宇坂  
若宮堤 美山町高田  
安波賀堤 福井市安波賀  
毘沙門大堤 福井市毘沙門 長300間、根幅3間、上幅9尺、高2間。
十善寺外堤 福井市六条 長134間、根幅3間、上2間、高9尺。
天保元年(1830)築立。
十善寺大堤 福井市六条 長290間。
鳶ノ尾大堤 福井市小稲津 長300間、根7間、上幅3間、高9尺。
毛嶋堤 福井市下馬  
上堂ケ腰堤 福井市板垣  
木田堤 福井市木田  
牧ケ八十堤 福井市若杉 長100間余、根幅4間、上幅1丈、高8尺。
足羽川右岸 小宇坂島囲堤 美山町小宇坂島  
成願寺堤 福井市成願寺 根5間、上2間、高2間。
荒木新保堤 福井市荒木新保 根4間、上2間、高2間。
稲津堤 福井市稲津  
川原往還堤 福井市栂野 根3間、上2間、高1丈1尺。
弁天堤 福井市和田  
締切堤 福井市和田 長22間。
和田三ヶ村堤 福井市和田中 長145間。
タンコロ堤 福井市西方  
大柳堤 福井市西方  
和田出作堤 福井市出作 延長356間。根幅6間、上幅1間、高2間。
魚浜堤 福井市出作  
板垣境堤 福井市板垣 根幅2間半、上幅4尺、高2間。
札ノ木堤 福井市勝見 根2間、上幅6尺、高7尺。
七本柳堤 福井市勝見 根7尺、上5尺、高3尺。
注:越前三大河沿革図および他資料により作成

(3) 足羽川の築堤工事
 「片聾記」によると慶長5年(1600)頃、福井の城下を流れる足羽川は勝見村から城之橋町を経て和泉町へ流れていた。そして、足羽川と勝見川の合流点付近で木田分水がなされ、この下流に藩の御舟場があった。また、若杉には「牧ヶ八十堤」が造られ、足羽川の奔流を防御していた。
  慶応3年(1865)には、板垣御普請所が管理する左岸の上堂ヶ腰堤、および板垣村百歩渕より七本柳まで築堤された。
  足羽川上流の毘沙門地区あたりには、300間(545.4m)に及ぶ毘沙門三ヶ御普請大堤が築堤され、その対岸にあたる成願寺にも御普請所が設置されて大堤が築かれた。この大堤は、決壊によって文化4年(1807)に北側へ18間(32.7m)後退して再度築立され、この下流に荒木新保堤が築かれた。
  東郷中島村と稲津村(ともに現福井市)の間には、天保元年(1830)に十善寺堤が築かれた。左岸の鳶ノ尾300間(545.4m)の大堤は、宝暦7年(1757)の洪水後に補強された。また、栂野村から和田村(ともに現福井市)にかけては、土堤街道となっていて、弁天様を祀ってあった弁天堤が築かれていた。さらに、西方村にかけては「三ヶ堤」「タンコロ堤」「大柳堤」「魚浜堤」「板垣堤」「札ノ木堤」などの食い違い状になった霞堤が西方・出作御普請所の管理の下に造られていた。  
(※河川のルーツ p.192〜195)
 品ヶ瀬村と高田村(ともに現美山町)には福井藩の御普請所が置かれていて、前者は折立村(現美山町)から下流の普請を采配し、後者は高田村を中心に上下流の川筋を管理していた。また、左岸の安波賀村にも御普請所が設置された。
(4) 日野川の改修
  幕府の代官として鯖江陣屋に元禄7年(1694)から正徳2年(1712)に勤めた古郡文右衛門は、松ヶ鼻頭首工地点を含む日野川右岸域の向新保村と下平吹村(ともに現武生市)との間を洪水による被害を防ぐため、霞堤や岩刎の設置をもって治水にあたった。
  ここは日野山の麓で、日野川の奔流が激しくその突端の松ヶ鼻に当たって、西方に流れを変える所である。そのような箇所であるため、古来からよく決壊する場所でもあり、その都度下流の集落や田畑は、大きな被害を被っていた。
 このような窮状を救うべく古郡代官は、近くの松ヶ鼻山で巨石を切り出して運び、川底より積み重ねて堤防とし、洪水にも流されないよう工夫した頑丈なものを造った。この巨石群を岩刎と称し、12ヵ所も築いたといわれている。
 その形状を見ると、岩刎と岩刎との間には堤防がなく霞堤の状態となっている。古郡文右衛門は、この工事のために公費700両と私費300両を投じたといわれている。
  この地域の人たちは、古郡文右衛門の功徳を讃え後世に伝えるため、古郡神社を向新保の日野神社境内に建てた。現在は千手観音堂となっている。日野神社には、巨石を動かすために使用した轆轤と麻縄の一部が現存している。

図2.2.2 向新保村の日野川堤絵図(元禄12年)(※武生市史)

日野神社と千手観音堂 (武生市) 日野神社と千手観音堂 (武生市)
日野神社と千手観音堂 (武生市)

(5) 浅水川の柳切り
  江戸時代の浅水川は、屈曲が激しく、そのうえ両岸には雑木が繁茂していて疎通が悪く、流れを良くして水害を防ぐために「柳切り」をしばしば行っていた。万延元年(1860)11月に江端村と下荒井村、そして下莇生田村(ともに現福井市)の庄屋が江端橋より日野川合流点までの河岸に茂る雑木の伐採を奉行所に誓願し、文久元年(1861)3月より伐採を始めたという記録がある。また、六条村・下文殊村・木田村・社村(ともに現福井市)が協力して浅水川江端川水害予防組合を創立して、河岸の竹木、雑草を伐採した。
  明治2年(1869)5月、浅水川の屈曲部の8ヵ所について掘削を実施しているが、それでも1年に4〜5回人家が浸水し、水稲が泥水に没するなどの被害が生じていた。また、洪水の度に朝六橋などが浮き上がったりしたため、尺六石漬物桶の中に水を張って並べ浮き上がりを防いだり、橋桁に引っかかった流木を除去するために人夫を繰り出したり、苦労が絶えなかった。(※麻生津村誌 p.124〜126)
(6) 天王川の改修
  江戸時代の天王川は、宮崎村では山干飯川と呼ばれていた。宮崎村の江波では平等川、織田川、国成川の三川が天王川に合流していたため、毎年のように水害を受けていた。「五拾年免札写」(西正治文書)という古文書によると、江波では正徳4年(1714)から宝暦13年(1763)の50年間に12回もの川除工事を行ったと記されている。工事は、江波の被害がいつも甚大であったため被害面積に応じて年貢を免除し、さらに普請に必要な材料や手間代を領主が出費する御普請で実施された。
 江波の免札には、被害のあった次年度には必ず村名の上に「堰御普請所」とか「川除井堰御普請所」と書かれていて、「八石八斗五升四合、夘山崩石砂入引」のように村高から差し引かれている。そして、「米九俵三升七合五勺、御普請人足御扶持米御差縋」(寛政4年江波村皆済目録)のように、人足の手間代を年貢の内から差し引いている。
(※宮崎村誌 p.81〜95)
 江戸時代における工事計画から着手までの流れを下記に示す。

江戸時代における工事計画から着手までの流れ

(7) 川普請
 1) 川除御普請所
  川除御普請所とは、現在の土木事務所にあたる役所で河川事務を取り扱っていた。普請とは仏教のことばで、多くの人々に請いて寺院・堂塔に関する営繕工事を行うことであった。これが中世以降は土木工事を指すようになり、建築営繕のことを「作事」と称するようになった。
  江戸時代の役職の内、作事奉行・普請奉行・用水奉行などの名が見られるが、普請奉行は用水奉行とともに河川・用水・江溝の管理運営にあり、併せて用水奉行は通水の紛争解決、普請奉行は川岸・堤防の破損修復、築堤、用水の維持補修工事に専念した。
  川除とは、水害を未然に防止したり、決壊した地点を復旧する工事を行うことである。(※河川のルーツ p.196〜197)
 「地方凡例録」によると普請には、公儀御普請、御手伝御普請、国役普請、私領普請、自普請に分かれる。自普請は、工事をすべて農民の出費によって行うものであり、それ以外をすべて御普請といった。(※宮崎村誌 中巻 p.81)
 2) 海老助の御普請所
  九頭竜川と日野川との合流点付近に位置する西藤島では、出水毎に冠水を免れられない地域であったため、流れ込んだ氾濫水を早く流出させるよう堤防を築かない定めとなっていた。すなわち、他の地域で氾濫した河川水までも流入してきて、あたり一面が湖水の状態となり、河川の水位が下がっても一度流れ込んだ水は堤防があればそれに遮られて減水し難くなる。それは、水が引くまでの長日数、水害に苦しまなければならないことになるため、冠浸水しても早く引くように築堤を行わなかったのである。
  しかし、海老助・大瀬・三郎丸(ともに現福井市)地先では、日野川が蛇行しているため出水毎に河岸を浸食し、崩壊するので護岸工事を行う必要があった。また、海老助には古来より三国湊と福井間の舟運の権利を握っていた水運業者がおり、舟に積んだ荷物を下ろす河戸があったので、川岸を保護し整備しておく必要があった。
  そこで福井藩は、日野川の護岸工事を司る「海老助御普請所」を海老助から深谷に至る道筋の深谷渡しの少し下流辺りの日野川右岸に置いた。また、川除けの工事を司る御普請所を九頭竜川左岸の中ノ郷にも置いていたが、いずれも郡方奉行の支配下にあった。
  川除け工事は、地掛かりの所については村において行ったが、藩の御普請所においても実施されることもあった。このときは、郡方奉行より各村々に負担額が割り当てられ、それを各村で家々の持石数に応じて負担額が決められていた。川除小役に徴収される額は、どの家でも大体夏と秋に藩へ納める年貢米代の約10%、「村もり銀」の2倍程度であった。これは、水防のためにいかに大きな負担をしていたかを知る手がかりにもなるものである。
(※西藤島村史 p.658〜664)


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