九頭竜川流域誌


5.6 浅水川の改修

 昔の浅水川は、徳尾村地先から主計中〜三十八社村に出て北上し、浅水〜中荒井村を経て六条村に入り江端川と合流して西流し、社村を横断して日野川に注いでいた。この間、極めて屈曲が多く河岸には老樹が繁茂していて、水流が停滞しやすく、大雨ともなれば洪水を引き起こす大きな要因となっていた。出水のたびに、北陸街道をはじめ幾筋もの道路が冠浸水して途絶したり、農地への浸水が半月にも及ぶことがあった。このため、流域の住民は明治2年(1869)以後、しばしば県に河川改修の陳情を行った。
(※福井市史 p.188 )
江端および大島地先から下流の南江守までの間は、屈曲部を対象に新川を掘削したり、沿岸の竹木伐採の許可を受けて毎年実行してきたが、出水のたびに川岸が崩され、川底が浅くなり有効な手段とはならなかった。そこで、流域内16地区が集まり浅水川・江端川水害予防組合を明治26年(1893)に結成し、浅水川・江端川の抜本的な大改修の促進を郡役所や県庁に数十回にわたって陳情した。
  明治28年、29年と続いた大洪水の後、すでに創立されていた浅水川・江端川水害予防組合に、 明治39年(1906)に中荒井外16地区も加盟し、同一歩調を執って水害対策にあたることとなった。
 そして、明治41年(1908)10月2日に浅水川改修速成請願を平田東助内務大臣および中村純九郎福井県知事へ上申し、翌年(1909)9月13日には足羽、丹生、今立、南条4郡の関係代表者が桂太郎内閣総理大臣兼大蔵大臣および内務大臣、福井県知事に上申した。同年10月に開かれた臨時県議会は、九頭竜川第二期改修附帯工事として日野川および浅水川改修工事費を議決した。内務省においても同43年(1910)2月に浅水川改修を決定し、浅水川上流徳尾付近より神明村および立待村(ともに現鯖江市)を経て日野川に至る新川を開削する大計画を樹立した。これにより、浅水川・江端川水害予防組合の目的としていた改修工事が実施されることとなったので、従来から行ってきた「柳切り」を適度に継続することとして、この予防組合を解散することとなった。
 新川開削にあたる地域では、土地売買価格で異議をとなえる人も出てきたりしたため、大正3年(1914)8月佐藤孝三郎福井県知事や足羽郡長が関係地区に出金による調停を提示したが不成立となり、やむなく土地収用法を適用して工事を断行するに至った。その後、工事は順調に進んだものの、第一次世界大戦が起こり一部工事が未了となったが、大正13年(1924)6月に関係村々から労役提供の動きが出て、老若数千人の村人たちが炎天の下で工事に従事した。その結果、同年7月16日午前11時新川工事が完成した。現在、江端川畔の福井市江端町日吉神社境内には、新川開削の「防水記念碑」が建てられている。なお、碑柱には九十九橋の橋材が用いられている。
(※麻生津村誌 p.126〜128)

浅水川の害 日吉神社境内(福井市江端町)の防水記念碑
日吉神社境内(福井市江端町)の防水記念碑

図2.2.4 浅水川の河道の変遷


九頭竜川流域誌メニューへ
第2章メニューへ
戻る次へ
TOPに戻る

Copyright (c) 国土交通省近畿地方整備局 福井工事事務所 2001 All Rights Reserved.