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大和川の付替え
 付替えがもたらしたもの

付替えで失った土地と、新田開発で新たに生まれた土地があったんや。

大和川の付替え工事によって、少しでも土地をなくした村は40ヵ村にのぼり、約270ヘクタールにおよび家や田畑がなくなりました。
しかし、付替えの翌年(宝永2(1705)年)から、久宝寺川や玉櫛川などの旧川筋、新開池(しんがいけ)や深野池(ふこのいけ)などの新田開発が始まり、付替えから5年後には約1,060町歩(約1,050ヘクタール)の新田が開発されました。これは地代総額で37,000両余となり、幕府が費やした付替えの費用分を補てんしました。幕末には、旧大和川筋の新田開発は53カ所、石高10,953石に達しました。
開発された新田は、今ではほとんどが住宅地となっています。

■付替え後の旧大和川の新田
(参考:史跡・重要文化財鴻池新田会所図録)
付替え後の旧大和川の新田

近世の新田は、誰が開発したのかによって、代官見立新田、藩営新田、土豪見立新田、町人請負新田、村請新田などがあり、旧大和川の河川敷では、町人請負、寺院請負、農民寄合請負などによって開発されました。
中甚兵衛をはじめ、数多くの人々が新田開発に取り組みましたが、このうち、最大は、大坂の両替商、鴻池善右衛門宗利(こうのいけぜんえもんむねとし)が開発した鴻池新田でした。善右衛門宗利の開発した新田は158町8反余(1,706石余)にのぼり、典型的な町人請負新田として知られています。今でも、その名残で「鴻池」の名前が伝わっています。
新田を開発したところを「会所(かいしょ)」といいますが、今も東大阪市内には鴻池新田の会所である建物が保存されています。

■復元された鴻池新田会所の本屋
復元された鴻池新田会所の本屋(外観) 復元された鴻池新田会所の本屋(室内)


新田で栽培したんが、綿。その綿からできたんが「河内木綿」や。

■河内木綿の文様:江戸中期以降には縞、型染、筒描などの文様が考案された。
河内木綿の文様

付替え後、旧大和川筋で多くの新田が開発されましたが、砂地のため米づくりに適さない土壌だったので、主に綿の木が植えられました。河内では14〜15世紀ごろから綿をつくっていたようですが、大和川の付替え後は特に増大し、最盛期には10,600町歩(約10,500ヘクタール)以上もの面 積で栽培されていました。これらの綿でつくられた木綿は「河内木綿」と呼ばれ、農家の自給自足から出発したものですが、品質の良さから生産量 が増加し、全国に知られる名産となりました。
河内に近い摂津平野卿(現大阪市)は綿の集散地として発展しました。その周辺の村々では綿作が盛んになり、宝暦7(1757)年には耕地の70%で綿作が行われていました。
また、綿の実をしぼって油をつくる製油業も起こりました。現在の長瀬川沿いの製油工場などは、その名残を伝えています。


■木綿商いの風景:
仲買人が直接、各農家をまわって買い付けた。
(河内名所図会)
木綿商いの風景

ひとつの村が、川によって分かれてしまうこともあってんで・・・。

大和川の付替えによって、新田開発や綿栽培の繁栄などの多大な恩恵がもたらされたのですが、マイナスに働いたこともありました。
柏原の西方、現在の藤井寺市、松原市、堺市など農地の多くを失った村々では、旧大和川筋に移住したり、小作人に身を落とす人々がいました。中には一家離散し、放浪する人々もあったといわれます。
また、ひとつの村が新しい大和川によって分断され、家や寺社と田畑が川の北と南に分かれてしまうなどといったことも起こりました。

堺港の衰退は、新川が運ぶ土砂も一因や。

新しい大和川が運んでくるおびただしい土砂によって、6回におよぶ改築工事が江戸時代に行われたにもかかわらず、港は埋没を余儀なくされました。これによって、中世の自由な湾港都市として栄華を誇った堺の町は、港湾としての役割を果たせなくなっていきました。

■付替え後、河口部に土砂がたまったことで、新田と化し、港は浅くなり衰退しました。
(『大阪春秋・堺のすべて』などをもとに作成した図)
わたしたちの大和川


新たな川と、新たな暮らし。「新」大和川流域の歴史が始まったんや。

旧川筋が耕作地などになり、そのようすが変わったとともに、新たな川筋でも人々の暮らしは変わっていきました。
旧大和川や平野川を運航していた剣先船の中で、河内国の23か村に許可されていた「在郷剣先船」と呼ばれていたものは、付替え前は16か村が船を所持していました。
しかし、今津村・巣本村・赤井村、雁屋村などの村々から計20艘の株の返上があり、正徳元(1711)年から享保2(1717)年にかけても、茨田郡の中垣内(なかがいとう)村・北条村、若江郡の上小坂村・植付村などからも株の返上がありました。一方では、新川筋にあたる川辺村の権左衛門に対して、正徳4(1714)年に船の所持が許可されています。このように、剣先船の活躍は、旧大和川筋から新大和川筋に移っていったことがうかがえます。

また、新しい大和川は、西除川と東除川を分断したため、左岸(南側)一体が排水不良地となり、大水の時には左岸の村々に被害をもたらすようになりました。右岸でも、大和川本川の堤防が決壊するなどの水害に見舞れるようになりました。水害時に堤防を補強するため、寺院の墓石や地蔵尊を積んでいたところもありました。

雲上地蔵尊
■大阪市住吉区遠里小野に祭られた雲上(うんじょう)地蔵尊。改修工事の時に川底から発見されました。



参考資料: 『大和川の付替え 改流ノート』(中 好幸氏 著)
『図説大阪府の歴史』(河出書房新社 )
『大阪の歴史力』(社会法人農村漁村文化協会)
『大和川物語』(大阪府柏原市役所)
『大和川流域のあゆみ 時の流景』 (国土交通省近畿地方整備局大和川河川事務所)
『Levee Vol.41』(財団法人河川情報センター)

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