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大和川の付替え
大和川が人の手により現在の流れに付替えられたのは300年前。その経緯を紹介します。付替え前の大和川(水害、治水)付替え工事のようす付替えがもたらしたもの

■大和川付替地図(出典:大阪府の歴史)
大和川付替地図

 付替え前の大和川(水害、治水)

大和川の水害に、人々は悩まされたんや・・・

かつて、大和川は、柏原村で南から流れてくる石川と合流し、ここから西北へ折れ、久宝寺川(長瀬川)と玉串川(玉櫛川)に分かれて流れて、各川や池と合流しながら最後はそれぞれ淀川へと注いでいました。
大和川が流れていた河内平野は、川が運ぶ肥沃な土砂のおがけで、古代から田畑が開かれ、人々が生活を営んでいたのですが、常に洪水の危険がつきまとっていました。川の流れで運ばれた土砂が河底にたまり、まわりの田畑よりも河底が高い天井川となっていたことや、河口にも土砂が堆積していくことで大雨時などに川の水が排水されにくくなっていたためでした。
古くは651年の水害から、832年の大雨に河内・摂津の被害、1563年の畿内大洪水等の記録が残されています。


■付替え前の主な大和川洪水の記録

832年 8月の大風雨により河内・摂津に被害。
1544年 畿内大洪水により、河内・摂津に甚大な被害。
1563年 5月の8日間にわたる断続的豪雨により、河内国の半数が浸水、死者16,000人余。
1620年 5月、志紀郡の堤防が決壊、水田24,000石分の被害。
1633年 8月、柏原村をはじめとする各村の堤防が決壊、民家50軒、死者36人、水田20,000石分の被害。

なんとかせなあかん、古人も取り組んだ大和川の治水

古来、大和川の治水には、多くの人々が取り組んできました。
788年、摂津大夫であった和気清麻呂(わけのきよまろ)は、平野川、石川と合流した大和川の一部を、今の天王寺公園の南側に通して(北側という説もあります)、大阪湾へ流そうと計画しました。多くの予算と人夫約23万人を使ったにもかかわらず、完成には至りませんでした。
また、江戸時代に入ってからは、河村瑞賢(かわむらずいけん)が安治川の改修・大和川の浚渫(しゅんせつ)・川中のヨシの刈り取りを行うことで洪水を防ごうと計画、3年がかりで改修工事を行いました。しかし、瑞賢の死後、2年連続で大洪水が起こり、年貢を納めることができない村が出るまでに至る事態が起こったのでした。

和気清麻呂 河村瑞賢
和気清麻呂 河村瑞賢


大和川の付替えは、促進・反対の両方の直訴があってんで

江戸時代、元和(1615〜1624)から元禄(1688〜1704)にいたる間に、十数回に及び堤防の決壊などによる大水害が起こりました。今米村(現在の東大阪市)の中甚兵衛ら、河内・讃良(ささら)・若江・茨田(まんだ)など各郡の代表者たちは、自分たちの土地を洪水から守るため、大和川の流れを柏原の大和川と石川の合流点から西へ向け、住吉・堺方面へ流す案を何度も幕府に嘆願しました。嘆願の理由は、この付替えによって、15万石以上にもおよぶ村々が水害の被害をまぬがれ、旧河床には新田が開けて作物の増収が期待できるから、というものでした。
しかし、大和川の付替え予定地にあたる村々では、新しい川によって、先祖伝来の家や田畑がつぶされるため、激しい反対運動が起こりました。


■付け替えに代わる「治水工事の嘆願書」
付替え促進派の嘆願書
(中 九兵衛氏所蔵)許可番号:N-050803

  恐れ乍らのご訴訟。
私どもは河州摂州両国の水所の百姓でございます。
一、以前からお願い致しておりますように、大和川の流れを船橋村前より堺の北の海へと川違えしていただければ、水害に苦しんでいる十五万石余の百姓が永久に助かることになりますので、恐れ乍ら川違えのお願いを申し上げます。
一、これまでに、大坂あたりで所々川普請をしていただきましたけれども、大和川が運ぶ土砂で、新開池・深野池や川々は大坂河口までことごとく埋まってしまい、洪水で堤ははち切れるし、一円悪水も落とせません。一年の内にも度々家まで水につかり、何とも渡世を送る場もなく、食べるものもなくなって困りきっております。(中略)とにかく川違えの実施が延び延びになって、非常に迷惑しております。
 今後もこれまで通りにお助けがなければ、十五万石余の百姓は何の為すべもなく餓死に及び、何ともなげかわしい次第です。
 恐れ乍らご慈悲をいただき、お願いの通りの川違えをしていただければ、私ども一同、末代までのお助けと有難く存じ奉ります。
(貞享四(1687)年の訴状/現代語訳:中好幸氏)

■反対の嘆願書(写真提供:柏原市立歴史郷土資料館)

反対の嘆願書

  恐れ乍ら申し上げます
河州志紀郡船橋村柏原村より西は住吉手水橋迄の
村々の百姓共でございます。
 去る十五日にお奉行様衆がご検分された通りに、川違えを指示されますと、川底になってしまう村々は言うまでもないことですが、新川筋の南側は、南の山方より多くの悪水が流れてきていますので、数多くの井路川が溢れて田地一面に水がつかり、人馬も通れないことが一年の内には度々ございます。そんな所を、北は新川に遮られ、西は地形が高くなっていますので、四五万石も水場になってしまいます。とりわけ、十ヵ村余は水底となり、住むことも出来ず路頭に迷うことになります。
 また、新川より北側のかなりの村は日損場になってしまいます。
 とにかく、川違えの実施は摂州河州数郡の百姓の命にかかわりますので、ご慈悲の上、これ迄のように中止して下されば有難いことでございます。以上。
(延宝四(1676)年の訴状/現代語訳:中好幸氏)

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