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大和川の歴史
わたしたちの暮らしや文化、産業などと深く結びついていた大和川の歴史を紹介します。付替え前の大和川と流域付替え後の大和川と流域

 付替え前の大和川と流域
昔むかしは、河内平野は海やった・・・

今から約7,000年前の縄文時代の前半ごろ、大阪平野の一部である河内平野は、そのほとんどが海に沈んでおり、上町台地が半島のように突き出た「河内湾」でした。
しかし、北からは淀川が、南からは大和川が大量の土砂を運んできたので、だんだんと土砂がつもり、長い年月をかけてですが、河内湾に埋め立てられていきました。
約1,800〜1,600年前の弥生時代の後半から古墳時代の前半には、湾は湖までに小さくなり、現在の河内平野ができはじめてきました。


■河内湾の時代
(約7,000〜6,000年前)
  ■河内湖の時代
(約1,800〜1,600年前)
河内湾の時代 → 河内湖の時代

暮らしも文化も、大和川にはくぐまれてきたんやで。

大和川が運んできた土砂は作物をつくるのに適しており、稲作が伝わった時代以来、多くの水田が開かれました。大和川の水は、田畑の水として利用されました。
また、農業用水としてだけでなく、交通路としても大和川は重要でした。
飛鳥に都があった時代、中国大陸への使者である遣隋使(けんずいし)の小野妹子(おののいもこ)とともに来た裴世清(はいせいせい)らは、舟で大和川をさかのぼり飛鳥の宮へ至ったと、日本書紀に記されています。
その他にも、柏原市にある史跡高井田横穴のひとつに見られるゴンドラ舟をあやつる人が記された壁画や、国分市場の松岳山(まつおかやま)にある大和川の舟運を管理していた船氏(ふなし)一族である船史王後首(ふなのふひとおうごおびと)の墓があることからも、大和川を舟で行き交い、大陸の文化が取り入れられていたことがうかがえます。

(史跡)高井田横穴の線刻壁画・ゴンドラに乗る人(6〜7世紀)

戦国時代を経て江戸時代に入ると、安定した社会となり農業や商工業は大きく発展しました。
大坂を中心とした経済圏ができ、大和川の舟運も大きく栄えていきました。
河内側での大和川の舟運は、柏原船の成功にはじまります。柏原船は、1620年・1633年の大洪水で受けた被害から村を立ち直らせようとして、志紀郡の代官、末吉孫左衛門(すえよしまござえもん)が柏原から京橋までの貨物を運ぶ船を運航させたものでした。当時40隻ではじめられたのが、4年後には70隻まで増えました。
柏原船の成功に続こうと、京橋から亀の瀬までの大和川や富田林村までの石川などを行き来する剣先船も運航されました。剣先船では、肥料(干しイワシ)やしょうゆ、酒などを大坂から運び、農産物などを奈良から運んでいました。


復元された柏原船

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