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大和川の歴史
 付替え後の大和川と流域
大和川の付替え後、綿工業が発達してんで。

宝永元(1704)年に大和川の付替え工事が竣工した以後から、旧川筋などで新田開発が始まりました。新田では、主に綿が栽培されました。
綿は平野郷町の繰屋(くりや)・綛屋(かせや)で加工された他、生産地農家の内職として綿布に加工されていました。
河内国の農村で織られた木綿は、「河内木綿」として知られ、組合組織もでき、江戸末期にはマニュファクチャー(工場制手工業)が展開するほどになりました。生産額は、合縞(あわせじま)と木綿21,400余反(1反は成人1人前の衣料に相当する量 )、繰綿(くりわた)糸1,700余梱、繰綿240貫(1貫は約3.75kg)にもなっていました。

● 関連ページ 「付替えがもたらしたもの」

■綿摘みのようす(『綿圃要務』より) ■糸紡ぎのようす(『綿圃要務』より)
綿摘みのようす 糸紡ぎのようす

 

急激に進む近代化で、大和川流域の産業も変わっていったんや。

明治の殖産興業(=明治時代前期の近代工業育成政策のこと)政策のひとつであった紡績産業において、明治10年ごろから大阪や奈良にも近代的な紡績工場ができました。河内では、綿実油(めんじつゆ)や菜種油の伝統から生まれた製油業においても近代的な工場ができました。
また、明治から大正・戦前までの間、大和川流域では交通網が整備され、鉄道が敷設されました。明治22年に大阪鉄道が、湊町(現JR難波)−柏原間を開き、続いて明治23年に奈良−王寺、明治26年に柏原−王寺間が開通して大阪と奈良が鉄道でつながりました。しかし、陸運が便利になることで、大和川での舟運の勢いは衰えていきました。

ぶどう

農作物の栽培種も変わっていきました。
明治初期、安価な外国産の綿が輸入されるようになり、国内での綿づくりは一時衰えました。政府は国内の産業を保護するために品種改良を行うなどで巻き返そうとしましたが、短い繊維である国内産の綿が近代紡績には適さなかったこともあり、大日本紡績連合会は綿花の輸入にかかる税をなくそうとして政府や議会に働きかけました。
明治29(1896)年、「輸入綿花及羊毛海関税免除法案」が衆議院・貴族院を通り成立しました。これにより、国内での綿づくりの衰退は決定的となったのでした。
河内では、綿の代わりにブドウやミカンなどの果樹、菊・ナシ・イモ・野菜類などが栽培されるようになりました。




戦後の高度経済成長期、大和川は・・・。

第二次世界大戦後、日本は復興による急速な経済発展と工場や宅地の開発が進みました。大和川流域でも急激に都市化を広げました。しかし、利便性がはかられる一方で、大和川は流域の排水路と化し河川環境が悪化しました。大和川の水は浅香山浄水場から取水し堺市の上水として利用されていましたが、昭和53(1978)年12月、水質悪化のため取水を止めました。




技術の進歩で、大和川の水害は減ったんや。

特に、戦後は度重なる台風などによる災害から流域を守るため、治水事業は堤防の嵩(かさ)上げや護岸(ごがん)強化の方法で行われてきました。
このような土木技術の進歩と治水事業の進展で、近年は地域を壊滅させるような水害は少なくなりました。
しかし、高くなった堤防が壁としてふさがり、人々から川の姿を遠ざけることとなったのかもしれません。




参考資料: 『図説 大阪府の歴史』(河出書房新社)
『よみがえれ!大和川』(つげ書房新社)
『大和川物語』(大阪府柏原市役所)
『大和川流域のあゆみ 時の流景』(国土交通省近畿地方整備局大和川河川事務所)


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