琵琶湖・淀川ふれあい紀行

近江八幡市の北にある堀切港から船で約10分。亀の甲らのように湖にぽっかりと浮かぶ沖島に到着します。面積約1.5平方キロメートルの小さなこの島には古くから人が住み、四方を湖で囲まれることによって独自の文化や生活を継承しつづけてきました。しかし、漁業を中心にした自給自足の暮らしは、環境の変化によって、いま少しずつ様変わりしようとしています。

はじめての定住者は、清和源氏の7人の落武者。

沖島の歴史をひも解くと和銅5年(712)、近江の国守であった藤原不比等(鎌足の子)が、瀛津島神社を建立したことから始まり、湖上を行き交う船の安全を祈願する神の島であったといわれます。その後、流刑された罪人や神社の神官などが住んだ記録は残っていますが、はじめての定住者は保元、平治の乱で敗れた清和源氏の流れをくむ7人の落武者でした。 茶谷重右衛門、小川光成、南源吾秀元、北兵部、西居清観入道、中村磐徳、久田源之丞の7氏は、島の住民の祖先であり、今も多くの人がこれらの苗字を名乗っています。

沖島を歩いて驚くのは、島にほとんど平地がないことです。尾山(標高220メートル)と頭山(標高130メートル)のふたつの山裾が湖岸近くまで迫り、わずかに島の南側に東西に細長い平地があるだけです。距離にして約500メートルほどのこの土地に、二列に並ぶように島のほとんどの住宅が集中し、家々の間を縫うように狭い路地が伸びています。広い道路がないため、島には1台も自動車はなく、人々の移動手段は自転車か、荷物を運ぶための三輪自転車に限られています。

風景

南郷の洗堰にも使われた沖島の石。

古くから島の人々の生活は漁業によって成り立ってきました。ウロリ(ゴリ)、スジエビ、コアユ、ニゴロブナなど、琵琶湖を代表する魚が獲れ、戦後はシジミ漁や養殖真珠の母貝となるイケチョウガイの漁に沸きました。また一方では、沖島は石材採掘の島としても有名でした。その歴史は享保年間にまでさかのぼり、当時からすでに島の人々が漁業のかたわらに石を採って売っていたことが古文書に記されています。

明治に入ると石材採掘は島の大きな産業となり、遠く四国や小豆島からも石工が来て、島はたいへん賑わいました。島で切り出された石は、丸子船にのせて浜大津港に運ばれると、琵琶湖疏水や東海道本線の鉄道建設など、当時、県内でさかんに進められた多くの土木工事に使用されました。さらに、アクア琵琶の前の瀬田川に遺構が残る南郷の洗堰にも沖島の石が使われました。しかし、明治、大正の最盛期を過ぎると石材の需要は減りはじめ、やがて昭和40年代に建築資材の主役がコンクリートになり、陸上輸送の時代を迎えると産業として成り立たなくなります。そして、昭和45年に石切場は閉鎖され、明治以来、およそ100年にわたって増減する漁業収入を補い、島の暮らしを支えてきた石材採掘業にピリオドが打たれます。

風景

島の将来像を考える「沖島21世紀夢プラン」。

沖島の人々は、長年にわたって漁業を中心とする自給自足の生活を続けてきました。しかし、漁獲量は昭和45年をピークに下降線をたどり、今日では漁業を島の主産業とすることは困難になりつつあります。現在、島で最年少の漁師の年齢は36歳。それよりも若い世代は、島を離れたり、都会へ勤めに出る者がほとんどです。

昨年5月、このような状況を踏まえ、島の将来像をみんなで考えようとするプランが、島民の呼びかけで近江八幡市によって立ち上げられました。それが、「沖島21世紀夢プラン実行委員会」です。今回は会の推進委員長を務める川居初朗さんにお話をうかがいました。

「島の暮らしが昔ながらの自給自足を続けられたのは、昭和40年代の後半まででしょう。高度経済成長の影響で、若者の多くが島を離れました。さらに、その頃が最も琵琶湖の水の汚れがひどく、淡水赤潮の被害もありました。最近では外来魚によって漁獲量が急激に減り、今はもう若者が漁業を継ぐことも難しくなっています。そこで、この現状をしっかりと見据え、みんなで沖島の将来像を考え、島民と市が一体となって島が抱える問題を解決しようとスタートしたのが沖島21世紀夢プラン実行委員会です」。

川居初郎さん
「沖島21世紀夢プラン推進会議」の会長を務める川居初郎さん

沖島ならではの人の絆を活かして。

現在、「沖島21世紀夢プラン推進会議」は、島民や近江八幡市役所の職員をはじめ、地域振興を研究する県内の大学生も加わり、島のあるべき姿を産業・医療・環境・交通・教育の各分野を中心に話し合っています。

「沖島は、古くから島中が親戚づきあいをしているような人の結び付きの強いところです。昔は、家を建てる時でも島のみんなで手伝ったものです。そんな気質が受け継がれていますから、21世紀夢プランにも島民全員が積極的に参加し、新しい島づくりに取り組もうとしています」。島の人々の真剣な想いが最初に形となったのは漁業組合婦人部による「沖島名産市」でした。

「島を訪れる年間約1万人の観光客に沖島の味をアピールしようと、水揚げされた魚をその場で炊いて即売を始めました。今の季節ならコアユやヒウオ、モロコの佃煮ですな。おかげさまで大好評です」。この他にも、推進会議では湖周道路や山の散策道の整備、空き家を活用した資料館の整備など、さまざまなアイデアが提案されています。このように新しい時代に向けた沖島のビジョンが今、太古から受け継がれた人の絆によって、力強く形づくられようとしています。

子供たち
漁港を散歩中にかわいいポーズをとってくれた 島の保育所の子供たち。
名産市
水揚げされた魚を沖島風に味付けして即売する「名産市」。 佃煮は観光客にも大好評です。

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