琵琶湖・淀川ふれあい紀行

京都府の中央部にあたる丹波高地に源を発し、山々をめぐりながら園部、亀岡を経て、淀川へと合流する一筋の川。この川は、新河川法では桂川と名称を統一されていますが、土地の人々は、古くから虎天堰(八木と亀岡の境界付近)と嵐山の間を保津川と呼んできました。日本屈指の峡谷美を誇り、名勝嵐山へと至るこの区間は、今も全国的に保津川の名で親しまれ、大小の岩を縫い、急流を往く保津川下りは、地元の大切な観光資源となっています。

物資輸送に始まった保津川の「川下り」。

保津川の川下りの歴史をたどると、その始まりは長岡京に都があった8世紀末にまで遡ることができます。そもそも「川下り」は、水流を利用して下流へ物資を輸送することから生まれた言葉で、当時の保津川では、上流の丹波から木材を輸送することが主な目的でした。後に京都嵯峨の天竜寺や臨川寺の造営をはじめ、大阪城、伏見城の築城も保津川の川下りを利用して資材が調達されたといわれています。

しかし、当時の保津川は、水路を遮る巨岩やはげしい落差、浅瀬などが随所にあり、筏でしか下ることができませんでした。そこで、その開削工事を計画し、慶長11年(1606)に6ヶ月の歳月をかけて見事に成し遂げたのが京都の豪商、角倉了以でした。

保津川水運のようす
技を利用して木材を運ぶかつての保津川水運のようす

河川土木事業に功績をのこした角倉了以。

保津川とゆかりの深い角倉了以は、医者の家系に生まれながらも医学を修めることを嫌い、算術と地理を学び、諸外国との交易に情熱を燃やしたことでも知られています。

文禄元年(1592)には豊臣秀吉から朱印状を受け、安南(現在のベトナム)貿易を始め、巨万の富を築きました。そして、了以がその富を投じて取り組んだもうひとつの事業が河川開削でした。その業績は京都の高瀬川や静岡の天竜川、富士川など全国に及び、流域に多大な利益をもたらしました。

保津川もまた、了以の開削によって筏だけではなく搬送船が通れるようになり、材木に加えて丹波地方の米や農作物などを京の町へ自由に運ぶことができるようになりました。また、物資を載せた船が嵯峨に着くことから市中商人の往来が盛んになり、当地が発展するきっかけになったといわれます。

船頭のようす
川の水量や風の強さによって、乗船する船頭の数は変化する。
角倉了以の木造
保津川右岸の大悲閣にのこる角倉了以の木像

船頭のようす

ベテラン船頭が語る保津川今昔。

保津川下りの船頭さんの中でも、川を知り尽くしたベテランとして周囲の人望を集める井上弘さんは、今年で船頭歴47年を迎えます。初めて竿を握ったのは昭和30年、その頃から保津川はどのように変わったのでしょうか。

「保津川は、昔から舟筏水路と呼ばれていました。この川の上流の広河原あたりは木材の産地ですから、私が船頭を始めた頃には、まだ上流からたくさんの筏が流れてきました。嵐山からは西高瀬川を通って京都の市中へと入る。三条の方には多くの製材所がありましたから、そこへ運んだのです。材木の上には薪や柴を載せて、下っていく姿を今も覚えています。しかし、それも昭和36、37年くらいまででした。それから後はトラック輸送の時代になりました。私らの乗る船も、昔は一度下るたびに4時間ほどかけて引き綱をたぐりながら、亀岡まで歩いて帰っていましたが、昭和23年からは車で運ぶようになりました」。

井上さんは67歳の今も日に1回、繁忙期にはおよそ2時間の川下りを日に3回もこなします。船上から見た風景はどのように映っているのかおたずねしました。

「保津川の流れは少しも変わりません。四季折々の峡谷の景観も大岩や巨石の姿も昔のままです。ただ、水そのものの美しさは変化したように思います。昭和 30年代には、川下りの途中で喉が渇くと川の水をすくって飲んだものですが、今はそうはいきません。それともうひとつは、上流に日吉ダムができたことでしょうか。私も船頭をしながら農業を営んでいますが、灌漑用水が必要な時期でも一定の水量を流してくれますので、今年のような雨の少ない年も農作業を続けることができます。また、昔は渇水によって川下りを休止するような年もありましたが、ダムの水量調整でそのような不安もなくなりました」。

井上弘さん
遊船企業組合の中でも
ベテランの井上弘さん
船頭のようす
操船技術は、船上で先輩から新人へと伝授される。

保津川下りの船頭は、あこがれの職業。

農村女性活動グループのみなさんに作っていただいた伝統食は4品。いずれも湖北地域の代表的な郷土料理です。

後継者不足が、保津川下りの大きな課題となった時期もありましたが、現在は毎年5、6人の新人船頭が加わり、船頭さんたちの集まりである遊船企業組合は活気にあふれています。今年の春に船頭としてデビューした吉田一徳さんにお話をうかがいました。

 「私は、一度会社勤めを経験しましたが、小さな頃からの憧れだった船頭になりたくて、この春に転職しました。若い船頭さんの中には自由な時間が持てることを理由に、この仕事に就く人もいますが、私の場合はとにかく長年の夢をかなえるためにこの道を選びました。亀岡の子供たちにとって、やっぱり船頭は花形ですね。子供の頃から親しんだ川を仕事場にできるわけですから幸せだと思います。同級生も喜んでくれるし、親戚のおばさんたちもいい仕事を見つけたね、といってくれますね」。

しかし、一人前の船頭になるためにはかなりの修練が必要で、ベテランになっても鍛練は一生続くといわれます。  「川を下りながら、先輩の船頭さんから竿をさすポイントや櫓のこぎ方を教えてもらいます。お客さんの生命を預かる仕事ですから、時には厳しく指導されることもあります。今はまだ、指示通りに動くことだけで精一杯です。嵐山に着いて乗客のみなさんを降ろすまでは緊張の連続。それでも、船に乗っていると毎日、風景が変わることに気づきます。水が少しでも増えると川の広さも変わって見えるし、いつもと同じコースを通っているはずなのに、必ず何かが違います。それが自然というものなのでしょうが、365日、毎日変化する保津川を眺められることも大きな喜びのひとつですね」。

吉田一徳さん
今年の春、憧れの船頭となった吉田一徳さん


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