>

琵琶湖・淀川ふれあい紀行

小浜を起点に熊川、保坂を経て、今津に至る街道は、古くから九里半街道と呼ばれてきました。この九里半街道は、小浜港に水揚げされた魚介類を京都の錦市場へと運ぶ鯖街道のひとつとして利用され、終着点の今津港で琵琶湖の湖上交通と連携する特色あるルートでした。ビワズ通信では、かつて物資の集散地として栄えた今津町を訪ね、往事のなごりを取材し、人々の暮らしに欠かすことのできなかった湖上交通の歴史を振り返ってみました。

古文書にはない「鯖街道」の言葉。

古くより若狭湾の鯖は、海から遠く離れた京の人々にとって貴重な食べ物でした。しかし、“鯖の生き腐れ”といわれるように、鯖は極めて鮮度の落ちやすい魚であることから、水揚げされると直ちに一塩し、京に向かって大急ぎで運ばれました。この鯖が運ばれた道を鯖街道と呼びますが、はたして、この呼び名はいつ頃から使われはじめたものなのでしょうか。

その起源をたどると、意外にも昭和50年代に発表された小説の中で初めて使われた言葉だったようです。

鯖街道は折からの旅行ブームにのって雑誌やガイドブックに採り上げられ、やがて日本を代表する街道として、多くの人々に親しまれる存在になったといわれます。

道標
九里半街道沿いに立つ保坂の道標。

いくルートもあった京への「鯖街道」。

今日、鯖街道として最も知られているのは、小浜から熊川を経て、保坂、朽木、大原、京都へとつづく若狭街道です。ところが、鯖街道はこの他にも針畑越えをはじめ、いくつものルートがあり、とくに人間が荷を背負って通った道は数多く、それらがすべて広義の鯖街道といえるのです。

今津の浦
かつては何艘もの丸子船で賑わった今津の浦。
九里半街道
脇を清流が流れる九里半街道。

今回、ご紹介する九里半街道は、幾筋ものルートの中でもとくに短い街道であり、その距離から九里半(38キロメートル)街道と呼ばれました。さらに、小浜から熊川、保坂を経て、琵琶湖に面した今津へと抜けるこの道は、湖上交通と結び付き、今津まで運ばれた魚や米などの物資は、ここから丸子船に乗って大津港へと向かい、再び、陸路を京都や大阪へと運ばれました。いいかえれば、九里半街道を来た鯖は、水の上の鯖街道ともいえる湖上交通によって都へともたらされたのです。

中世の街道図
中世の街道図(出典: 今津町史第一巻)
古代から多くの主要道が集まる近江の状況は、中世になっても変わらず、
九里半街道もこの頃より頻繁に使われるようになりました。

秀吉が着目した琵琶湖の湖上交通。

九里半街道と湖上交通の中継点である今津の港にいち早く着目したのは豊臣秀吉でした。

天正11年(1583)、北陸を平定した秀吉は、若狭から今津への商荷物の独占的な輸送を認めます。そこには、港の数を絞り、湖上交通を一手に管理しようという意図がありました。さらに秀吉は、全国統一をめざす中で、近在の浦々から100艘の船を集めて「大津百艘船」という組織をつくり、大津を中心に湖上交通の編成を図りました。これは全国統一がかなった際に、商品流通の重要なルートとなる湖上交通の利便性を高めることを大きな目的としていました。

丸子船
かつての湖上交通に使われた丸子船
(復元模型・大津市歴史博物館蔵)
江戸時代の石垣
加賀藩代官屋敷跡に残る旧港の江戸時代の石垣

秀吉の家臣で「大津百艘船」の結成にも尽力した浅野長吉は、坂本城や大津城主を経て、天正15年(1587)に若狭一国を与えられ、小浜城主となります。小浜が日本海航路の重要な港であり、九里半街道で結ばれていたことから、長吉は、これまでの秀吉の意を受け継ぎ、小浜を中継するすべての荷物を今津に着けるという強固な保護策を取り、これによって九里半街道と直結した今津・大津間の湖上交通が大きく発展することとなります。

現在も、今津の町を歩くと、琵琶湖に面した加賀藩代官屋敷跡には荷物の積み下ろしのために江戸時代に整備された石垣がのこり、九里半街道と旧港を結ぶ浜通には古い旅館が点在し、往事の賑わいを偲ばせます。

浜通の老舗旅館
14代つづく浜通の老舗旅館。

いくつもの時代を映しつづけた湖上交通。

九里半街道を往く荷物の代表的なものは、四十物と呼ばれる塩をつめた干し魚でしたが、この他にも米や大豆、穀物類など、さまざまなものが運ばれました。とくに、米についてはこの地域の土地が多くの領主によって治められていたことから、近隣で収穫された米を蔵米として地方に輸送する必要がありました。このような物資を大量に運ぶためにも、長吉らの保護策を受け、馬借(運搬人)や問屋(輸送業者)が充実し、輸送システムの発達した九里半街道と船を使った湖上交通が、盛んに利用されました。

一般的に九里半街道と今津・大津間の湖上交通は、1600年から1650年頃に最盛期を迎え、東北・北陸諸国と大阪を日本海・瀬戸内海を経由して結ぶ西廻航路の出現によって、しだいに衰退するとされています。しかし、沿道に残る古い資料を調べていくと、実際には、江戸時代の終わりまで、九里半街道を使った物資の輸送は続き、西廻航路とともに内陸ルートも並行して活用されていたことがわかっています。

やがて、江戸から明治へと時代が移ると、蔵米を運ぶ必要もなくなり、湖上交通は旅客が主な目的となって、1900年には今津港に桟橋が設けられ、蒸汽船が就航します。この船には大津や湖東との間を行き来する多くの商人や舞鶴連隊へと向かう兵士が乗り、大いに賑わいました。

このように琵琶湖を往来した湖上交通は、それぞれの時代の要望に応え、人々の暮らしや社会と深く関わってきました。そして、現在の今津港からは、白い汽船が西国33カ所に数えられる竹生島詣での乗客をのせて湖上を静かに行き来しています。

浜通の老舗旅館
湖上の安全を願い弘安元年に創建された住吉神社。


もどる進む