大阪の食文化を支えた市場今昔をたずねて。大阪市中央卸売市場

大阪で常設の食品市場として最初に成立したのは「天満青物市場」や「雑喉場生魚市場」、塩干魚を扱う「靱海産物市場」でした。 靱に替えて「堂島米市場」をそのひとつとすることもありますが、これらを天下の台所 大阪の繁栄を象徴する三大市場と呼んでいます。

豊かな漁場でもあった淀川。

大阪の古い市場として広く知られているのは生魚市場の雑喉場ですが、鷺島(現在の西区)にあったこの市場は、もともと野田や福島の漁師たちが漁獲した雑魚類(小魚)を商いしていた場所でした。それでは、淀川の最下流のこの地域ではどのような漁が行われていたのでしょうか。

当時の淀川では古くから鑑札なしで漁業を許された佃・大和田の漁師に加え、野田・難波・九条・大野・福などにも大勢の漁師が住み、大阪湾や淀川をはじめ、神崎川・中津川にも出漁していました。とくに河口の汽水域では、コイやフナ、ウナギなどが獲れ、ハマグリやシジミの漁も盛んに行われていました。天保年間には漁場をめぐって村や漁師方組合との間で争いが生じていることからも、淀川が豊かで漁師たちにとってきわめて重要な漁場であったことがうかがえます。

雑喉場生魚市場
雑喉場生魚市場(大正時代)
雑喉場魚市
滑稽浪華名所 雑喉場魚市
(こっけいなにわめいしょ ざこばうおいち)
魚市のにぎわいを描く。(大阪歴史博物館蔵)

五百余年の歴史をもつ大阪の市場。

大阪の市場がどのように生まれ、いかに発展してきたのか。市場の歴史にくわしい、大阪市中央卸売市場本場市場協会資料室の酒井亮介さんにお話をうかがいました。

「大坂の町が歴史の表舞台に登場するのは1496(明応5)年に、浄土真宗八世の蓮如上人が上町(馬場町から大阪城周辺)に庵を開いてからといわれます。やがて全国から門徒集団や商人、職人が集まり、大坂本願寺の寺内町を形成。 1562(永禄5)年には大火が記録に残っていますが、この時、焼失したのが二千軒といわれますから、一世帯五人と数えると約一万人の人がすでに寺内町に暮らしていたと考えられます。この人たちの暮らしを支えるために本願寺の門前で青物・乾物・川魚・生魚・塩干魚をはじめ、その他の日用品の商いも始まったと伝えられます。

1583(天正11)年に豊臣秀吉の天下になると、青物市は京橋南詰めにあった初代淀屋常安の邸宅内に場所を移します。

さらに京橋片原町(都島区相生町)を経て、1653(承応2)年には天神橋北詰周辺に移転し、これが天満青物市場として発展。その後、1931(昭和6)年に中央卸売市場が開業するまでの278年間にわたって、天満の地で連綿と栄えることとなります。

明治時代の天満青物市場
明治時代の天満青物市場(大川べり)。
天満青物市場跡の石碑
278年の歴史を誇った天満青物市場跡の石碑。

舟運の利を考えた好ロケーション。

天満青物市場には、摂津や河内などの近郊農家で栽培された蔬菜類が淀川やその支川を使い、船で運び込まれました。また、魚市場についても、古くは船場の靱町(伏見町)にあったものが、17世紀の後半になると漁船などの荷揚げに便利な鷺島に移り、これが前述の雑喉場の生魚市場となりました。この雑喉場には大阪湾岸をはじめ、遠く四国や九州からも早舟によって鮮魚がもたらされました。

舟運と市場の関係について、酒井さんは次のように語ってくれました。「天下の台所として活況を呈した大阪には、全国各地からさまざまな物資が舟によって運ばれました。とくに北海道の松前や日本海沿岸から西廻りで大阪にいたる北前船は、昆布などの海産物を大阪にもたらし、これが今日の大阪の食文化に多大な影響を与えたといえるでしょう。さらに、越後・越中・越前からは琵琶湖の塩津港を起点とする湖上交通を経て、宇治川・淀川の舟運により物資が到着しました。また、淀川を往来する船は、近江に向け、当時はきわめて貴重な肥料であった干鰯を運び、帰り荷としてさまざまな農産物を持ち帰りました。天満青物市場が町奉行所に提出した『淀川川筋下り荷物の小廻賃』によると近江・多賀からは釣枝柿・ごぼう・めうど・御所柿・梨子・漬松茸・なまかぶが運ばれたことが記されています」。

酒井亮介さん
大阪の市場の歴史を語る
本場市場協会資料室の酒井亮介さん。
天満青物市場跡の石碑
明治前期の大阪の漁業のようすを描いた『摂津国漁法図解』。
各漁村で行われていた18種類の漁具と漁法が紹介されています。
(大阪府立中之島図書館蔵)

鉄道と舟運に支えられた近代市場。

都市の近代化を積極的に進めていた大阪市では、大正10年より物価調節などを目的に、全国に先駆けて卸売市場の改革を計画。大正12年の中央卸売市場法の公布を待って、大阪市中央卸売市場の建設に取り掛かかりました。これは、天満、雑喉場、靱、木津など300年以上の歴史をもつ大阪の市場を統合するものであり、歴史的な一大事業でした。建設候補地として17カ所の場所が挙げられましたが、これまでの市場がそうであったように川沿い(安治川)の大阪市福島の地に開設することが決定しました。その大きな理由は1500トン級の汽船の接岸ならびに国鉄からの貨車の引き込みなど、舟運・陸運に有利であることが重要な要素でした。

昭和30年代後半までは、瀬戸内を通り、大阪湾から安治川を遡って数多くの貨物船が大阪市中央卸売市場の岸壁に横付けされ、荷揚げを行いました。そして、昭和40年代に入り、本格的なトラック輸送の時代を迎えるまで、舟運はまさに大阪の食料事情を支え、食文化を担う大切な輸送手段であり、川は大阪の人々の暮らしに欠かすことのできないかけがえのない存在だったのです。

荷揚げされるスイカ
九州より運ばれ、大阪湾から安治川を上り、
岸壁に荷揚げされるスイカ。昭和10年頃。
大阪市中央卸売市場
日本最大級の延床面積(30万 m² )を誇る
現在の大阪市中央卸売市場。

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