琵琶湖疏水に行こう。【大津市三保ケ崎〜京都市左京区岡崎町】

琵琶湖・淀川水系には、明治から大正時代にかけて、砂防や治水、利水のためにつくられたいくつもの土木遺産がのこされています。
今号のビワズ通信では、明治維新後、衰退の途にあった京都の街を復興するためにつくられた琵琶湖疏水に注目。建設当時のエピソードやその役割についてご紹介します。

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水路閣
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琵琶湖疏水の設計・施工の最高責任者、田辺朔郎の卒業論文草稿
(京都市上下水道局・田辺家資料)
取材協力:琵琶湖疏水記念館
マップ
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明治の大プロジェクト、琵琶湖疏水。

明治2年(1869)、天皇が東京に移り、千年あまりにわたって都として栄えてきた京都は、大きく衰退しました。幕末の嘉永3年(1850)に29万人だった京都市の人口は、明治10年(1877)には23万人にまで減少。産業は停滞し、都市の活力そのものが衰えつつありました。

明治14年に京都府知事に就任した北垣国道は、この窮状を打開し、京都振興を図る第一の策として琵琶湖疏水の建設に着目しました。琵琶湖疏水とは、水路によって琵琶湖の水を京都に導き、灌漑や生活用水、水力動力や水運などに利用しようというものでした。そのルートについては紆余曲折がありましたが、最終的には、大津市の三保ケ崎から第1トンネル(長良山のトンネル)を経て、滋賀県と京都府の境界へと進み、第2トンネルと日岡峠脇の第3トンネルをくぐり抜けて蹴上に至り、本線は聖護院町、岡崎町を通り、鴨川運河となって伏見に向かうものです。工事は、明治18年から5年の歳月をかけ、明治23年に完成。総工費は125万円で、国や京都府の財政規模増大率から試算すると今日の約1兆円にあたり、明石海峡大橋の建設に相当するビッグプロジェクトでした。

時代とともに変化した琵琶湖疏水の役割。

明治15年、北垣知事が当時の内務省長官に伝えた琵琶湖疏水の主な目的は次のようなものでした。

さらに初期の計画では、精米や防火用水などを加え、7項目の目的・効用が挙げられています。

琵琶湖疏水の完成によって、どのような効用があったかを見てみると、水運については、明治40年には1日平均50艘の旅客船と60艘の貨物船が運航し、明治30年代を通して1日平均550人が京都・大津間に乗船。積み荷を乗せた三十石船や客船で賑わう様子がうかがえます。水力については、当初の計画では水車による水力動力を予定していましたが、米国視察によってコロラド州アスペンの水力発電を見た結果、水力電気の方が投資対効果が大きいことが分かり、蹴上における約36メートルの落差を利用して水力発電所を建設することとなりました。これは水力電気事業を目的とした日本初の本格的な水力発電でした。明治 24年には事業がスタートし、翌年には電灯に供給され、明治28年からはこの電力によってわが国初の営業用電気鉄道(のちの市電)が京都の街を走り始めました。用水に関しては、「琵琶湖疏水は京都市民のいのちの水」といわれるように水道用水として利用され、今日もなお市民の暮らしを支えています。

その後、大正時代になると鉄道輸送が発達し、水運の需要は減少。疏水の利用は完成の20年後には、今日の主な役割である水力発電と水道用水に絞られることとなりました。

通水試験風景
通水試験風景。明治23年3月14日朝から疏水に水を入れ、
翌15日に試験舟による巡検を開始。
蹴上水力発電所
明治24年に全国初の水力発電所として建てられた
蹴上水力発電所

疏水をめぐる熱い想いと人間模様。

インクライン
往事のようすを復元したインクライン。
蹴上船溜〜南禅寺船溜は約36mの落差があるため、
レールの上の台車に船をのせて陸送しました
若き日の田辺朔郎博士像
若き日の田辺朔郎博士像

琵琶湖疏水については、若き京都府知事北垣国道と、工部大学校(現在の東京大学工学部)で琵琶湖疏水をテーマとする卒業論文を書き、やがて疏水プロジェクトの責任者となる田辺朔郎の二人の存在が有名ですが、計画から竣工にいたる過程には興味深いエピソードが数多く残されています。今回は、『琵琶湖疏水』の著者であり、地域プランナーとしても活躍される京都橘女子大学文化政策学部の織田直文教授にお話をうかがいました。「田辺朔郎は、いわば若きヒーローです。工部大学校在学中から琵琶湖疏水に興味を持ち、現地調査中に右手を痛めたために慣れない左手でペンを取り、卒業論文と設計図を見事に書き上げる。さらに、卒業後は京都府御用係に採用され、弱冠25歳の若さで疏水事務所工事部長に抜擢される。ただし、小説や戯曲にあるように田辺の卒論が北垣の目にとまり、いきなり疏水プロジェクトの最高責任者に任命されるということではなく、大学時代から田辺と接した北垣が、次第にその才能に惚れ込んでいったという方が適切でしょう。また、田辺朔郎はあくまでも設計・施工の最高責任者であり、田辺同様に若く優秀な嶋田道生という測量部長がいたからこそ、このプロジェクトが成功したことを忘れてはなりません」。

さらに、織田教授は、北垣知事と相対する滋賀県令(知事)の籠手田安定も、疏水工事を語る上で欠かせないキーパーソンだと言います。「つねに政治の表舞台で華々しく活躍する北垣に対し、籠手田は地味ながら県民主体の県政を堅実に進めるタイプでした。籠手田が手がけた治山治水事業は、その代表的なものであり、明治初期に荒廃した田上山にオランダ人土木技師ヨハネス・デレーケらを招き、全国に先がけて植林をスタートしています。琵琶湖疏水についても、国家的なプロジェクトと位置づけて投資をするならば、京都だけの振興策ではなく、広域的にメリットのある計画にすべきだと反対の立場を貫きます。また、京都府とのやりとりの中で、疏水で減少した湖水を瀬田川に堰を設けて確保することを要請。さらに、内務省に対しては、瀬田川に水量を自由にコントロールできる堰を設けなければ不平等の根本的な解決策にはならないと主張。籠手田安定は、一貫した反対姿勢によって滋賀県令の座を追われますが、この時の提案が後の南郷洗堰建設構想に反映されたとも推察することができます」。

織田教授
歴史の中のエピソードを知ることで、
疏水をめぐる散策がさらに魅力的になると語る織田教授

史実を知り、新たな魅力を発見。

織田教授は、このようなさまざまなエピソードを知った上で疏水沿いを歩くと、その魅力がさらに大きく膨らむと付け加えます。

「琵琶湖疏水の建設をめぐっては、数多くの人が議論を重ね、それぞれの知恵や技術を出し合い、歴史に残るビッグプロジェクトを成功へと導きました。わが国の土木史上初めて日本人だけの手によって完成させた琵琶湖疏水を見ていると、明治に生きた人々の気概や情熱を感じ取ることができます。当時に想いを馳せながら、延べ31キロメートルの本・分線に点在する史跡を訪ね、紅葉の京都を散策すると、きっと新たな発見があるはずです」。

琵琶湖疏水記念館
南禅寺船溜まりにほど近い琵琶湖疏水記念館
琵琶湖第1疏水取水地点
琵琶湖第1疏水取水地点。現在は、琵琶湖の水位が−2.0mに低下しても取水できるポンプが設置されています
琵琶湖疏水
山科・洛東高校近くを流れる琵琶湖疏水
散策コース
疏水分線沿いの哲学の道は格好の散策コース

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